FS-X当時の世界情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:39 UTC 版)
「F-2 (航空機)」の記事における「FS-X当時の世界情勢」の解説
日本がFS-Xの計画を進めている中、日本唯一の軍事同盟国であるアメリカ合衆国は、ロナルド・レーガン大統領のもと、ソビエト連邦との対決姿勢を打ち出しており、1981年(昭和56年)の「600隻艦隊構想」、1983年(昭和58年)の「戦略防衛構想(SDI構想:スターウォーズ計画)」などで軍拡競争を挑んだ。また、「欧州においても戦術核を使用した核戦争は起こりうる」と発言し、NATO諸国は改めて自分たちが冷戦の正面に居ることを認識した。 一方、アメリカは日本の置かれた環境や防衛努力が軽いとも感じており、アメリカのみならず西欧諸国からも「西側の一員」としての防衛努力への要求が高まった。1983年(昭和58年)の中曽根康弘首相の「不沈空母」発言や、1985年(昭和60年)の防衛費1%枠突破はそれに対する回答でもあったが、他の西側諸国と比較して少なすぎるとの批判は常に付きまとっていた。 経済面では日米貿易摩擦で対立し、1985年(昭和60年)に対日制裁法案が可決されるほど険悪な日米関係であったが、日米同盟の軍事面においては共和党が政権を担当していることもあり比較的良好であった。1986年(昭和61年)4月に来日したワインバーガー国防長官は「FS-X選定は日本が決定すべきこと」と発言をしていた。 日本のFS-Xの対艦ミサイル4発搭載という運用要求は、ソビエトの対日侵攻を想定した航空自衛隊のオペレーションリサーチの結果弾き出された数字であり、アメリカはF-15のペーパープラン以外に対艦ミサイル4発を搭載する戦闘機など考えたことは無かった。仮に、FS-Xに対艦ミサイルの4発搭載が出来ない場合、支援戦闘機隊の定数増加や新編、配備基地そのものの新設など自衛隊の組織自体をいじる必要があり、さすがにアメリカもFS-Xの運用要求を撤回させて、米国製戦闘機の輸入や改造無しのライセンス生産を公式の要求とすることは出来なかった。 しかし、1989年(平成元年)にブッシュ大統領に政権が交代すると、「ロン・ヤス」関係がベースにあった当時とは打って変わって、凄まじい対日圧力が展開されることになる。
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