CC派への加入とは? わかりやすく解説

CC派への加入

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 03:18 UTC 版)

張道藩」の記事における「CC派への加入」の解説

1926年民国15年5月張道藩帰国し同年秋、広東省政府農工庁長劉紀文招聘を受け、その秘書となった11月国民党中央組織部長代理陳果夫の目に留まり、その指示受けて張は貴州戻り貴州省党部の建設従事する。しかし、貴州省政府主席周西成国民党中央勢力貴州省浸透することを嫌悪していた。そのため1927年民国16年5月、張は周により「赤化嫌疑をもって逮捕され監禁拷問受けてしまう。地元有力者斡旋もあって10月釈放されたが、もはや貴州活動はできず、張は上海へ逃れた。 この経過もあって、張道藩陳果夫陳立夫から目をかけられることになり、以後CC派一員となっていく。1928年民国17年3月中央組織秘書に任ぜられ、10月には南京市政府秘書長となった。翌1929年民国18年3月国民党第3回全国代表大会出席し中央執行委員候補選出されている。11月江蘇省党部整理委員となり、1930年民国19年8月には青島大学教務長に任ぜられた。12月浙江省政府教育庁庁長となり、その翌年4月には党中央組織部副部長となっている。 ところが満州事変勃発後、張道藩蔣介石の攘外安内政策を支持したために国内学生反発を買い、杭州住居破壊される憂き目遭っている。これもきっかけで、張は一時すべての職を退き蔣介石個人秘書転じた1932年民国21年5月南京成立した中国文芸社張道藩理事となる。その後中華全国美術会理事長となり、また、南京戯劇学校創設するなどして、反共宣伝のための各種文芸活動積極的に展開した同年11月張道藩国民政府交通部常務次長に任ぜられる。1935年民国24年11月には党第5回全国代表大会で中央執行委員選出され、その翌年には内政部次長転じた

※この「CC派への加入」の解説は、「張道藩」の解説の一部です。
「CC派への加入」を含む「張道藩」の記事については、「張道藩」の概要を参照ください。

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