CC派への加入
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1926年(民国15年)5月に張道藩は帰国し、同年秋、広東省政府農工庁庁長の劉紀文の招聘を受け、その秘書となった。11月、国民党中央組織部部長代理の陳果夫の目に留まり、その指示を受けて張は貴州に戻り、貴州省党部の建設に従事する。しかし、貴州省政府主席周西成は国民党中央勢力が貴州省へ浸透することを嫌悪していた。そのため1927年(民国16年)5月、張は周により「赤化の嫌疑」をもって逮捕され、監禁・拷問を受けてしまう。地元有力者の斡旋もあって10月に釈放されたが、もはや貴州で活動はできず、張は上海へ逃れた。 この経過もあって、張道藩は陳果夫・陳立夫から目をかけられることになり、以後、CC派の一員となっていく。1928年(民国17年)3月、中央組織部秘書に任ぜられ、10月には南京市政府秘書長となった。翌1929年(民国18年)3月、国民党第3回全国代表大会に出席し、中央執行委員候補に選出されている。11月、江蘇省党部整理委員となり、1930年(民国19年)8月には青島大学教務長に任ぜられた。12月、浙江省政府教育庁庁長となり、その翌年4月には党中央組織部副部長となっている。 ところが満州事変勃発後、張道藩は蔣介石の攘外安内政策を支持したために国内学生の反発を買い、杭州の住居を破壊される憂き目に遭っている。これもきっかけで、張は一時すべての職を退き、蔣介石の個人秘書に転じた。1932年(民国21年)5月、南京に成立した中国文芸社で張道藩は理事となる。その後、中華全国美術会理事長となり、また、南京戯劇学校を創設するなどして、反共宣伝のための各種文芸活動を積極的に展開した。 同年11月、張道藩は国民政府交通部常務次長に任ぜられる。1935年(民国24年)11月には党第5回全国代表大会で中央執行委員に選出され、その翌年には内政部次長に転じた。
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