CC派幹部へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/17 14:36 UTC 版)
1927年(民国16年)1月、陳果夫の紹介により、潘公展と陳布雷は南昌で蒋介石と面会し、あわせて中国国民党にも加入した。このとき、陳は蒋介石の秘書として南昌に留まったが、潘は上海へいったん戻り、『申報』主編を務めている。同年4月、蒋が上海クーデター(四・一二政変)を発動し、上海に政治分会が成立すると、潘は分会委員となった。5月、上海市党部常務委員となり、清党(中国共産党粛清)に従事している。6月、上海市特別市政府が成立すると、潘は工商局局長に任ぜられ、さらに社会局(工商局を改組したもの)局長兼市政府秘書長になった。 1929年(民国18年)、陳果夫・立夫兄弟が浙江革命同志会を中央倶楽部(CC)に改組する。潘公展は張強・程天放らとCCの幹部になった。1932年(民国21年)6月、上海にCC派の機関紙に相当する『晨報』を創刊し、その社長となる。同年8月、上海市教育局局長となり、1934年(民国23年)3月には、中国文化建設教会常務理事兼書記長に起用された。翌1935年(民国24年)11月、国民党第5回全国代表大会において、中央執行委員に選出されている。1936年(民国25年)には上海市で社会局長も兼任した。これらの間、潘は反共や攘外安内政策の宣伝・推進に努めている。
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