A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKIとは? わかりやすく解説

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"BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI

(A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/28 10:17 UTC 版)

『"BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』
尾崎豊トリビュート・アルバム
リリース
ジャンル
時間
レーベル エスエムイーレコーズ
プロデュース 須藤晃
チャート最高順位
ゴールドディスク
  • ダブル・プラチナ (RIAJ)[2]
  • EANコード
    尾崎豊のトリビュート・アルバム 年表
    • "BLUE"
      A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI
    • (2004年)
    テンプレートを表示

    "BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』(ブルー ア・トリビュート・トゥ・ユタカ・オザキ)は、日本のシンガーソングライターである尾崎豊トリビュート・アルバム

    2004年3月24日に尾崎の十三回忌に合わせてエスエムイーレコーズからリリースされた。尾崎の楽曲をメジャーレーベルに所属する様々なアーティストがカバーしている。インディーズレーベルに所属するアーティストが参加した『"GREEN" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』が本作と同時にリリースされている。

    本作には宇多田ヒカルを始めとしてMr.Children槇原敬之Cocco175R岡村靖幸斉藤和義などの著名なアーティストの他に、尾崎の息子で当時15歳であった尾崎裕哉が「Crouching Boys(クラウチング・ボーイズ)」というユニットで「15の夜」のカバーで参加している[3]

    本作はオリコンアルバムチャートにおいて最高位第1位を獲得、日本レコード協会の集計において売り上げ枚数が50万枚を超えたためダブル・プラチナ認定を受けている。

    楽曲

    1. ダンスホール」 - DANCE HALL
      本曲はCoccoがカバーしている。プロデューサーである須藤晃はCoccoが手掛けた絵本『南の島の星の砂』を読んだことからCoccoとの接触を試みることとなった[4]。Coccoは当時音楽活動を休止しており、復帰の目途も立っておらず会うことは困難な状態であったが、事前にCocco側のスタッフに本作の企画を説明したところ本人と顔を合わせることが実現したと須藤は述べている[4]。須藤はCoccoに本曲のカバーを依頼し、10日も経ずにスタジオのロビーで須藤はCoccoと対面することが出来たと述べている[4]。Coccoは尾崎について熟知していなかったものの須藤の言葉に納得し依頼を受けており、「もし自分が死んで、一番の理解者がまわりのアーティストにトリビュートへの参加を呼びかけていたら、私は天国から『参加してあげて』と呼びかけると思うから、だから私は須藤さんのために歌う」と握手と共に述べたという[4]。須藤がCoccoに対し「歌を解放させたかったんです」と述べると、Coccoはすべてを理解しているかのように無言で頷いていたと須藤は述べている[4]
    2. 僕が僕であるために」 - MY SONG
      本曲はMr.Childrenがカバーしている。須藤が本作において強く参加を要望していたのが桜井和寿であったと述べている[5]。須藤は桜井が描写する混沌とした歌詞の世界観を好んでおり、「それはたとえば海底近くに棲息する深海魚が尾びれを一振りするたびに巻きあがるヘドロの濁りのようなものだ」とも述べている[5]。須藤は桜井のボーカルについて粘着質でありながら「聴き心地がさわやかな印象を与える希有なボーカル」であると述べ、尾崎と同質であると評価していた[5]。本曲をカバーすることはMr.Childrenメンバーからの要望で決定されており、Mr.Children側はかつて尾崎がデビューする切っ掛けとなったCBS・ソニー主催の「SDオーディション」に参加したものの最終ライブ審査で落選していたことを須藤に伝え、須藤は直接関与していなかったものの「見る目がなくてすみません」と謝罪したところ、メンバーからは「いや見る目があったんです、落ちたことでやりたいことをやろうという決心ができた」と返答されたと須藤は述べている[5]。メンバーは「録音はとても楽しかったです」と述べ、またMr.Childrenのプロデューサーである小林武史は「ベストを尽くしました」と述べたという[5]
    3. 路上のルール」 - RULES ON THE STREET
      本曲は橘いずみがカバーしている。橘は「失格」(1993年)という楽曲が切っ掛けとなり、またプロデュースを須藤が担当していたことから「女尾崎豊」と呼称されていた[6]。橘は尾崎の死去後間もない時期にメジャー・デビューしており、デビューを控えていた時期に須藤は橘を尾崎のコンサートの楽屋につれていった際に、橘は尾崎と一言二言会話をしていたと須藤は述べている[6]。5年間橘と共に仕事をしていた須藤はその後ソニーを退社しており、それを機に橘とは疎遠になっていたと述べている[6]。須藤は女性が男性のバラードではない楽曲を歌うことは困難であるとの認識があったが、「直球を投げてくれる人がほしかった」ために橘に本曲のカバーを依頼したところ橘は快諾したと述べている[6]。須藤は橘の真骨頂は「畳み込む歌いっぷりでのイメージの錯綜」であると断言した上で、橘に本曲を依頼した理由について「汗と音楽は止むことがない。これこそが橘いずみのルールではないか」と述べている[6]
    4. 十七歳の地図」 - SEVENTEEN'S MAP
      本曲は175Rがカバーしている。須藤による「若くて元気いっぱいのバンドをひとつは入れたい」という考えから175Rが選定され、同バンドのボーカルであるSHOGOが尾崎を尊敬していると知った須藤は「安心したと同時に不思議な気持ちがした。やはり彼らが僕を引きつけた理由があったのだ」と述べている[7]。須藤は同バンドの楽曲「空に唄えば」(2003年)を好んでいたことから渋谷公会堂公演に参加し、同曲のCDを購入している[7]
    5. I LOVE YOU
      本曲は宇多田ヒカルがカバーしている。宇多田側との交渉は本作の中でも最も早い段階で行われており、須藤は宇多田が尾崎をリスペクトしていることやコンサートにおいて本曲をカバーしていることは既知であったが、全米デビューを控えた多忙な時期であったために本作への参加は困難であると思われたことから、宇多田側から「是非」という返答を受けた須藤は飛び上がるほど驚愕したと述べている[8]。選曲に関しては須藤から推薦することを宇多田側から要望されたが、尾崎の中でも最も著名な楽曲であることから最終的に「I LOVE YOU」に落ち着いたと須藤は述べている[8]。カバーするに当たって様々な検討がなされたが、最終的には宇多田のDVDに収録されたライブテイクのボーカルに手を加える形になった[8]。本作に収録されたバージョンのボーカルは、奇しくも宇多田が尾崎が初めて本曲をレコーディングしたのと同じ17歳の時に歌われたテイクであると須藤は述べている[8]
    6. 太陽の破片」 - TAIYO NO HAHEN
      本曲は岡村靖幸がカバーしている。須藤は岡村のファンであったが、初対面は尾崎の葬儀の場であったと述べている[9]。須藤は様々なミュージシャンのプロデューサーとしてレコーディングスタジオを頻繁に出入りしていたが、同系列のレコード会社所属であるにも拘わらず、岡村とは一度も面識がない状態のままであった[9]。その後岡村の近況を知ることが困難となり、本作への参加を打診しようにも連絡が取れない状態であったが、岡村が夏のイベントライブに突如参加したことが糸口となり連絡が可能となった[9]。岡村からは「須藤さんが尾崎のトリビュートをやるなら協力したい」との申し出があり、須藤は本曲をリクエストすることになった[9]。本曲は尾崎の中でも難産となった楽曲であり、須藤は岡村に対して「天才岡村調でお願いします」と要望したと述べている[9]
    7. LOVE WAY
      本曲は大森洋平がカバーしている。須藤は本作制作の10年程度前にアマチュアコンテストのビデオで大森の存在を知っていたと述べている[10]。大森は尾崎の誕生日である11月29日近辺に開催されるバーステーイベントに参加したことがあり、尾崎のファンから拍手で迎えられたことがあったために本作への参加を打診することになったと須藤は述べている[10]。当初はファースト・アルバムである『十七歳の地図』(1983年)収録曲が候補に挙がっていたが、年末に須藤が大森のライブを観覧した際にインスピレーションを受け、ライブ終了後にカバーする楽曲の変更を大森に依頼することになった[10]。須藤は尾崎の楽曲の中で最もカバーするのが困難であるのが本曲であると述べた他、楽曲の変更を依頼した際に大森が直感的に「LOVE WAY」ではないかと思っていたというエピソードを披露している[10]
    8. 街路樹」 - TREES LINING A STREET
      本曲は山口晶がカバーしている。山口は音楽事務所を訪ねてはその場で弾き語りで自らの楽曲を聴かせるという行為を行ってきた人物であり、「自分の歌を人のものにする気などない」というタイプであったため、本作への参加を打診したものの断られるかもしれないと須藤は考えていた[11]。山口からは「自分にはできるかどうかわからないので、よくなかったら捨ててください」と返答があったものの言葉通りにする訳にはいかず、山口のファースト・アルバムである『夜の地図』(2004年)のレコーディング終了後にそのままの流れでレコーディングが行われた[11]。須藤はオリジナルの「街路樹」において歌詞の前半と後半において「おれ」と「おまえ」が「僕」と「君」という人称の混乱を起こしていることを問題視し、山口と協議の結果本作では「僕」と「君」へと統一することになった[11]
    9. OH MY LITTLE GIRL
      本曲は竹内めぐみがカバーしている。尾崎のシングルの中で最も高い売り上げを記録した楽曲であるため、須藤は本作において誰が本曲をカバーするのかが大きなポイントになると考えていた[12]。須藤は本曲の雰囲気に近い楽曲を探し、見つけ出したのが竹内の楽曲「何もない僕等」(2003年)であったという[12]。須藤は竹内に対して「尾崎豊の音楽は好きじゃないかもしれないけれど」と言いながら本作への参加を依頼したところ、竹内は「何もない僕等」は「OH MY LITTLE GIRL」のような楽曲を目指して制作された楽曲であると打ち明け、「その曲をやらせてください」と述べたという[12]
    10. 闇の告白」 - EXIST IN THE DARK
      本曲は斉藤和義がカバーしている。須藤が所属レコード会社を退職してフリーになった際に、個人的に関心があるアーティスト複数人に声を掛けており、その中の一人が斉藤であった[13]。当時の斉藤はセルフプロデュースに強い関心を持っていたことから、共同作業は実現しなかったと須藤は述べている[13]。斉藤のツアー終了後に直接会って本作への参加を打診したところ、斉藤は「あんまり尾崎豊の曲は知らないんですけれど」と言いながらも「トライします」と須藤に告げた[13]。選曲に関しては須藤と斉藤の間で思惑が異なっており、斉藤の「尾崎作品の後期のものに興味がある」という意向を受けたものの選曲に多大な時間を要し、その期間に斉藤は尾崎の楽曲を聴き込んだ上で選曲したのが「闇の告白」となった[13]。本曲は尾崎の遺作となったアルバムの収録曲であり、須藤によれば「最も遺作としてのアルバムの象徴的な作品」であり、「これを選んだセンスにも敬服するが、どう料理してくれるかもみものだった」という感想を持っていた[13]。完成品を聴いた須藤は「もの悲しい響きは圧倒された」と述べている[13]
    11. Forget-me-not
      本曲は槇原敬之がカバーしている。当時槇原のマネージメントを担当していた人物は元々尾崎のマネージメントを担当していた人物であったことから、須藤は槇原と面識があった上に槇原の楽曲「どんなときも。」(1991年)について「なんと尾崎豊的なんだろう」という感想を持っていたと述べている[14]。須藤は槇原に着目していたものの槇原が須藤が所属していたレコード会社に移籍した際に、須藤はすでに同レコード会社を退職していたために直接仕事をする機会が得られずにいた[14]。槇原に本作への参加を打診しカバーする楽曲は「Forget-me-not」に決定した後、完成品を聴いた須藤は「やはり僕が考えていたように槇原版『Forget-me-not』は尾崎豊的でもあり、まるで槇原君のオリジナルのようでもある。二人には確かに共通するセンスがある」との感想を抱いたと述べている[14]
    12. 15の夜」 - THE NIGHT
      本曲はCrouching Boys(クラウチング・ボーイズ)がカバーしている。Crouching Boysとは尾崎の息子であるHIRO OZAKI(尾崎裕哉)と須藤の息子であるTOMI YOの2名によるユニットであり、英語の語り部分をHIRO OZAKI、バック・トラックをTOMI YOが担当している。2003年にHIRO OZAKIに会った際に14歳になったことを聞かされた須藤は、「15の夜」の年齢に近づいていることに驚愕したと述べている[15]。自身の事務所でHIRO OZAKIと会った須藤は本作への参加を打診し、さらに偶然事務所に滞在していたTOMI YOにも声を掛け「何か二人でやるかい?」と打診したところ困惑しながらも承諾したと須藤は述べている[15]。その後HIRO OZAKIはアメリカ合衆国における学生生活に戻り、TOMI YOはその間に楽曲制作を行い、再会した際に二人で楽曲を仕上げてきたと須藤は述べている[15]。HIRO OZAKIとTOMI YOは本作に参加した理由について「THANKS TO YUTAKA OZAKI」であると述べ、感傷的な気分は両名にも自身にも皆無であったと須藤は述べている[15]。須藤は「彼らが尾崎豊が残していった歌を自分たちの肉体と精神にもう一度注入することは厳粛な行為だったに違いない」と述べた他、本曲の完成が本作制作への直接的な動機となったと須藤は述べた上で「二人に感謝する。本当に感無量な体験だった」と述べている[15]

    リリース、批評、チャート成績

    専門評論家によるレビュー
    レビュー・スコア
    出典 評価
    CDジャーナル 肯定的[16]

    本作のリリースは2003年11月5日にソニー・ミュージックエンタテインメント公式サイトにて、2004年4月25日に尾崎が十三回忌を迎えることに合わせてリリースされることが告知され、さらにリリースに合わせて同年4月22日にトリビュートイベントが開催されることも告知された[17]。その後2004年3月24日コピーコントロールを目的としたコピーコントロールCDであるレーベルゲートCD2にて、また初回限定版はデジパック仕様にてリリースされた。本作のリリースに合わせて入門編となるベスト・アルバム『13/71 - THE BEST SELECTION』が同年4月21日にリリースされた[3]。さらに同日には1988年9月12日に行われた東京ドーム公演の模様を収録しVHSにてリリースされたライブ・ビデオ『LIVE CORE』(1989年)がDVDにて再リリースされた[3]

    リリース当時には本作購入者に対して「購入者限定web特典」として、リリース日と同日から「I LOVE YOU」のミュージック・ビデオがフルコーラスで視聴できるサービスが展開された[18]。本作はレーベルゲートCD2が廃止されたことに伴い、2005年7月27日に通常のCDであるCD-DAとして再リリースされた。

    音楽情報サイト『CDジャーナル』では本作の参加アーティストに対して「大物が揃う豪華な一枚」であると絶賛し、「これだけの顔ぶれが揃うとカヴァーの仕方に違いが出てて面白い」と述べた上で宇多田による「I LOVE YOU」のカバーに関して「感情こもってて本気度120%」であると称賛した[16]

    本作はオリコンアルバムチャートにおいて最高位第1位の登場週数24回となった[1]。3月22日から28日にかけての期間において、タワーレコード渋谷店のランキングチャートでは第1位となったGLAYの『THE FRUSTRATED』に続いて第2位を獲得した[19]

    収録曲

    • CDブックレットに記載されたクレジットを参照[20]
    # タイトル 作詞・作曲 編曲 アーティスト 時間
    1. ダンスホール(DANCE HALL) 尾崎豊 ホッピー神山 Cocco
    2. 僕が僕であるために(MY SONG) 尾崎豊 小林武史Mr.Children Mr.Children
    3. 路上のルール(RULES ON THE STREET) 尾崎豊 須藤晃 橘いずみ
    4. 十七歳の地図(SEVENTEEN'S MAP) 尾崎豊 佐久間正英、175R/ブラスアレンジ:佐久間正英 175R
    5. I LOVE YOU 尾崎豊 GOH HOTODA 宇多田ヒカル
    6. 太陽の破片(TAIYO NO HAHEN) 尾崎豊 岡村靖幸 岡村靖幸
    7. LOVE WAY 尾崎豊 西川進 大森洋平
    8. 街路樹(TREES LINING A STREET) 尾崎豊 須藤晃 山口晶
    9. OH MY LITTLE GIRL 尾崎豊 森俊之 竹内めぐみ
    10. 闇の告白(EXIST IN THE DARK) 尾崎豊 斉藤和義 斉藤和義
    11. Forget-me-not 尾崎豊 槇原敬之 槇原敬之
    12. 15の夜(THE NIGHT) 尾崎豊 Tomi Yo Crouching Boys
    合計時間:

    スタッフ・クレジット

    • CDブックレットに記載されたクレジットを参照[21]

    参加ミュージシャン

    録音スタッフ

    制作スタッフ

    チャート、認定

    チャート 最高順位 登場週数 売上数 規格 出典
    日本(オリコン 1位 24回 - CCCD [1]
    国/地域 認定組織 日付 認定 売上数 出典
    日本 日本レコード協会 2004年3月 プラチナ 250,000+ [22]
    2004年4月 ダブル・プラチナ 500,000+ [2]

    リリース日一覧

    No. リリース日 レーベル 規格 カタログ番号 備考 出典
    1 2004年3月24日 エスエムイーレコーズ CCCD SECL-67 [16][23]
    2 2005年7月27日 CD SECL-234 [24][25]

    脚注

    1. ^ a b c BLUE~A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI|オムニバス”. オリコンニュース. オリコン. 2025年9月27日閲覧。
    2. ^ a b ゴールドディスク認定 2004年4月”. 日本レコード協会公式サイト. 日本レコード協会. 2024年7月15日閲覧。
    3. ^ a b c 尾崎豊豪華トリビュート遂に登場!さらに関連作品も続々とリリース!”. HMV & BOOKS online. ローソンエンタテインメント (2004年3月22日). 2025年9月27日閲覧。
    4. ^ a b c d e "BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI 2004, p. 2.
    5. ^ a b c d e "BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI 2004, p. 4.
    6. ^ a b c d e "BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI 2004, p. 6.
    7. ^ a b "BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI 2004, p. 8.
    8. ^ a b c d "BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI 2004, p. 10.
    9. ^ a b c d e "BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI 2004, p. 12.
    10. ^ a b c d "BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI 2004, p. 14.
    11. ^ a b c "BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI 2004, p. 16.
    12. ^ a b c "BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI 2004, p. 18.
    13. ^ a b c d e f "BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI 2004, p. 20.
    14. ^ a b c "BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI 2004, p. 22.
    15. ^ a b c d e "BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI 2004, p. 24.
    16. ^ a b c “BLUE”A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI [デジパック仕様] [CCCD] [廃盤]”. CDジャーナル. 音楽出版社. 2025年9月27日閲覧。
    17. ^ ●尾崎豊トリビュートアルバムリリース決定!イベントも実施決定!”. ソニー・ミュージックエンタテインメント公式サイト. ソニー・ミュージックエンタテインメント (2003年11月5日). 2025年9月27日閲覧。
    18. ^ 尾崎豊、没後13回忌にトリビュートアルバム2枚同時リリース”. BARKS. ジャパンミュージックネットワーク (2004年3月16日). 2025年9月27日閲覧。
    19. ^ 3月22日~3月28日のタワレコ渋谷店チャートの模様を実況中継!!”. TOWER RECORDS ONLINE. タワーレコード (2004年3月30日). 2025年9月27日閲覧。
    20. ^ "BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI 2004, p. 0.
    21. ^ "BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI 2004, pp. 2–29.
    22. ^ ゴールドディスク認定 2004年3月”. 日本レコード協会公式サイト. 日本レコード協会. 2025年9月27日閲覧。
    23. ^ BLUE ~A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI [レーベルゲートCD]/宇多田ヒカル”. TOWER RECORDS ONLINE. タワーレコード. 2025年9月27日閲覧。
    24. ^ “BLUE”A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI [再発]”. CDジャーナル. 音楽出版社. 2025年9月27日閲覧。
    25. ^ BLUE ~A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI”. TOWER RECORDS ONLINE. タワーレコード. 2025年9月27日閲覧。

    参考文献

    関連項目

    外部リンク


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