808・809年の遠征
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「トルトーサ包囲戦 (808年-809年)」の記事における「808・809年の遠征」の解説
808年、トルトーサに2度目の攻撃が行われた。ルートヴィヒはこの攻撃を自ら指揮することはなかった。当時のフランク王であったカール大帝皇帝は包囲を開始するべく、自身の封臣(vassus)と国王巡察使(missus)であったインゴバルト(Ingobert)を送り、アデマールとベラは再びエブロ川を越えて襲撃を開始したが、上流から流れてくる馬糞によって予め襲撃者の存在は察知された。しかし、アデマールらはウマイヤ人のキャンプを略奪し、トルトーサの知事(ワーリー)アブドゥンの軍を破り、多大な戦利品を持って帰国した。しかし、インゴバルトは冬も包囲を続けた。 ルートヴィヒは809年の第三次遠征を主導し、インゴバルトの進行中の包囲を続行せしめるべくアキテーヌの援軍と装備を送った。ヘリベルト(Heribert)の指揮下にある更なる援軍は、カール大帝によってフランク地方から送られた。 イセンバルド(Issembard)とフェゼンサック伯リュータール1世(Leuthard I of Paris)も参加した。なおリュータールはバスク人の部隊を連れてきたと言われている。 『フルドヴィチ記(Vita Hludovici)』と『フランク王国年代記(Annales regni Francorum)』による包囲作戦とその結果についての主な記述は、正確には一致していない。 以下は『フルドヴィチ記』の記述。 On arriving [at Tortosa, Louis] battered and wore down the city with rams, mangonels, covered sheds, and other torments, so that its citizens abandoned hope, and seeing that Mars had turned against them and that they were beaten, they handed over the keys of the city, which Louis on his return sent to his father with great satisfaction. These events, carried out in such a way, struck great anxiety in the Saracens and Moors, for they feared a similar fate might be in store for each city. So forty days after he had begun the siege, the king went home from the city and reentered his kingdom. —Vita Hludovici, §16 以下はその和訳。 (ルートヴィヒはトルトーサに)到着すると、破城槌、マンゴネル、「屋根付き小屋」などを以て町を破壊し、市民は希望を失い、マルス神が自分たちに敵対し、打ち負かされたのを見て、町の鍵を渡し、帰国したルートヴィヒは大満足で父王にそれを送った。このような経緯から、サラセンやムーアの人々は、自分たちの都市にも同じような運命が待ち受けているかもしれないと、大きな不安を抱くようになった。包囲を始めてから40日後、王は都市を離れ、再び自分の国に戻ってきた。 —フルドヴィチ記, §16 一方で『フランク王国年代記』には以下にようにある。 In the west the Lord King Louis entered Spain with his army and besieged the city of Tortosa on the River Ebro. When he had devoted some time to the siege and had seen that he could not take the city quickly, he gave up and returned to Aquitaine with his army unimpaired. —Annales regni Francorum, s.a. 809 以下はその和訳。 西方では、ルートヴィヒ公が軍隊を率いてスペインに入り、エブロ川沿いの都市トルトーサを包囲した。しばらく包囲に専念し、すぐに街を奪えないことがわかると、彼はあきらめ、軍隊とともに無傷でアキテーヌ地方に戻った。 —『フランク王国年代記』、s.a. 809 『フルドヴィチ記』の記述にある「屋根付き小屋(covered shed)」とは、兵士を投擲物(弩の石など)から守るための移動式シェルターのことである。 マンゴネルへの言及は、西ヨーロッパでは初めてのものである。通例「投石機」「石弓」などと訳すこの単語は、ビザンツ帝国で古くから知られていた牽引式のトレビュシェットである。ルートヴィヒがトルトーサにて自ら行った包囲は、40日間続いた。一部の歴史家は、ルートヴィヒがトルトーサの城壁を破ることに成功したと『フルドヴィチ記』を解釈しているが、多くの者は、ルートヴィヒが単に形式的な服従行為を受け入れて退却したのだと考えている。 後世のイスラム教の資料には、別の結果を報告するものもある。カリフの息子で後継者のアブド・アッラフマーン2世は、上層部の行進の司令官であるアムルーズ・イブン・ユースフ(ʿAmrūs ibn Yūsuf)とともに救援軍を率いて都市を救ったとされている。イブン・ハイヤーン(Ibn Ḥayyān)によれば、「多神教徒は敗走し、多くのフランク人が全滅した」。アル・マッカリーもフランク族の敗北を報告している。
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