2011年「SBM48」解体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/19 09:11 UTC 版)
「SBM (野球)」の記事における「2011年「SBM48」解体」の解説
2011年は開幕前に甲藤が故障で離脱、攝津が先発に転向することからSBM48が解体されることとなった。しかし、中継ぎ陣には巨人から藤田宗一が移籍、大場翔太が中継ぎに転向したため彼らの名前の頭文字である「S」をとってSBMは再結成される可能性もあったが、藤田は二軍生活が長く、大場は先発に再転向したためならなかった。 かくしてSBMは解体されたが、杉内俊哉と和田毅の二枚看板に攝津が加わることで先発陣は厚みを増した。さらにホールトンがこの年19勝を挙げ最多勝を獲得するなど、杉内・和田・攝津・ホールトンの四人は四本柱と呼ばれる活躍を見せた。山田大樹や岩嵜翔、大場翔太ら若手も台頭し、終盤には谷間で先発するようになった大隣憲司も好投。先発投手が8人で、チーム防御率2.32という12球団最強の先発陣を作り上げた。 6月26日の北海道日本ハムファイターズ戦(ヤフードーム)で先発した攝津が7回を投げ、8回をファルケンボーグ、9回を馬原が抑える変則SBMが初めて完成した。この試合では攝津が12奪三振、ファルケンボーグが3奪三振、馬原が2奪三振とSBM最多の17個の三振を奪った。 SBM解体について野球評論家の小関順二は「中継ぎ陣で勝ってきたチームなので攝津の先発転向は得策ではない」という趣旨の発言を、元東北楽天ゴールデンイーグルス監督の野村克也は「攝津の先発転向を決断した秋山監督の手腕を評価する」という趣旨の発言をそれぞれ著書でおこなっている。これは先発が比較的弱いとされていたチームの弱点を、去年同様中継ぎ陣の厚さでカバーすべきという小関の意見と、反対に先発を強化することで中継ぎ陣にかかる負担を減らしてしまうと言う野村の案が真っ向から対立しており、ネット上などで話題となった。 結果として、攝津は先発で14勝を挙げ先発転向は成功した。懸念された中継ぎ陣はファルケンボーグ・馬原がそれぞれ離脱したものの、森福・金澤が前年以上の奮闘を見せ、左右の中継ぎとしての地位を確立。金澤はファルケンボーグと馬原の不在時はクローザーを努めるなど自己最高の成績を収めた。ファルケンボーグは馬原の代役としてクローザーを努め、19セーブを挙げた。馬原も前半戦は不調だったものの終盤に復帰し、活躍した。そのほか吉川輝昭が以前の金澤の位置で登板することが多くなり、中盤にファルケンボーグの故障に伴い獲得したヤンシー・ブラゾバン、先発再転向前の大場翔太らの活躍もあり、SBM解体をまったく感じさせないシーズンV2の原動力となった。 CSでは攝津が第二戦に先発し勝利を挙げると、その後は中継ぎとして待機したが3戦で終了したこともあり登板機会はなく、SBM復活はならなかった。日本シリーズでも攝津が第三戦に登板しチームの連敗を止める勝利を挙げ、中一日でセットアッパーで7回に登板したが今度は馬原孝浩の不調、森福の好投もありSBMは復活しなかった。しかしこのように大一番では攝津がフル回転で中継ぎに回される事もあり、中継ぎとしての信頼も揺るぎのないものとなっている。事実、攝津は第7戦で胴上げ投手になっている。
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