2輪ライダー時代
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1942年、洋画家・挿絵画家生沢朗の長男として東京で生まれた。幼少期から軽井沢の別荘に足繁く通い(父は名門軽井沢ゴルフ倶楽部のメンバーでもあった)、10代でイギリス車のMG-TFを乗り回すなど、裕福な家庭に育つ。啓明学園在学時、上級生と一緒にカブ(補助エンジン付き自転車)を買ったのがきっかけとなり、友人達と「ギャルソン・モーターサイクルクラブ」を結成した。 1958年に浅間高原自動車テストコースで開催された第1回全日本クラブマンレースに出場し、15歳の最年少ライダーとして有名になった。東京オトキチクラブからトーハツワークス、ホンダ・テクニカルスポーツへと移籍し、田中健二郎門下で鍛えられるが、「鈴鹿サーキットのS字でアウトから子供(長谷見昌弘)に抜かれた」ことで才能の限界を悟り、興味のあった4輪レースへ転向した。
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2輪ライダー時代
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1959年4月に大阪の信太山で開催された「第1回全日本モトクロス競技大会」でデビューし、オープンレースで優勝を飾る。 同年8月の第2回全日本クラブマンレース(アマチュアが対象)に出場。一般市販車のホンダ・ベンリィスーパースポーツCB92で125ccクラスに、市販レーサーであるドリームスーパースポーツCR71で250ccクラスに出場し、両クラスで優勝する。同レースと併催だった第3回浅間火山レース(ワークスチームが対象。このレースでのカテゴリー名は“耐久レース”)125ccクラスにも招待され、市販マシンCB92でホンダのワークス勢を抑えての優勝を果たす(1レースで3勝)。浅間火山レースの250ccクラスにも招待されていたが、このレースには出走していない。125ccに続き250ccクラスでもホンダワークスが負けては困ると、ホンダから北野に対し出場を控えるよう要請があったのではないか、という説もある(CR71は名目上は市販車だが、事実上ホンダ系チームだけに貸与されていた)。 これらの活躍で一躍注目の的となり、高橋国光や伊藤史朗と並び、若き天才ライダーと呼ばれた。 翌1960年にホンダワークスに加入。わずか19歳で世界最高峰の難レースと言われたマン島TTレースに出場したのを始め、世界グランプリ(GP)レースに出場し活躍する。 1961年初めのデイトナスピードウィーク・US(アメリカ)GP(世界GPではないノンタイトル戦)250ccクラスで、マイク・ヘイルウッド(モンディアル)や伊藤史朗(ヤマハ)などの強豪を破り独走優勝。世界GP戦ではないものの、これは日本の選手および自動車(2輪4輪)メーカーにとって海外ビッグレース初優勝だった。 ただし同じ1961年のマン島TTの練習時に転倒し重傷を負ってしまい、同年の大半を治療等に費やす結果になった。以後、この事故による重い後遺症を抱えた状態でレース活動を行うことになった。 その後もホンダワークスライダーとして世界GPに出場するが、目立った成績は残していない。
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