1990年代の大湖地方の混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/02 01:26 UTC 版)
「バニャムレンゲ」の記事における「1990年代の大湖地方の混乱」の解説
1990年前後から、東部ザイールはルワンダの政情不安の影響を強く受け始めるようになった。1989年から1990年にかけて、北キヴ州のフツは自分たちの利権を守るためにヴィルンガ農業相互扶助共同体(Mutuelle Agricole de Virunga、MAGRIVIと略称される)を設立した。しかし、MAGRIVIは実際は、ルワンダ大統領ハビャリマナとその一族が組織したもので、農業共同体の見かけとは異なり政治的・軍事的な組織で、親キガリを目的とするネットワークだった。 一方で、同じ時期、ルワンダ愛国戦線(FPR)はバニャルワンダ、バニャムレンゲから兵士を集めだすようになった。同じく、MAGRIVIもフツから兵を募るようになった。バニャルワンダは既に周辺部族と対立関係にあったが、これにより更に内部対立も深刻化した。 FPRに参加したバニャムレンゲは、ルワンダのために戦うのが目的ではなく、今後予想される反バニャムレンゲの紛争に備えて軍事訓練を受けることが主目的だったが、ザイール人からは、バニャムレンゲはルワンダのために戦っていると見なされ、逆にバニャムレンゲはザイール人ではなく外国人であるとの見方を強めさせた。 北キヴ州が1990年代初めから部族間で抗争し合い内戦状態にあったのに比較して南キヴ州は比較的落ち着いていた。しかし、1993年にブルンジ大統領ンダダイエが暗殺されたあとの政治的混乱でブルンジから南キヴ州へ数万人の難民が押し寄せたことで状況は一変した。実際、この難民流入によって、ルジジ平野は国連難民高等弁務官事務所が難民に提供した白いテントで雪が降ったように見えたという。ウヴィラにはかなり人数のバニャムレンゲが住んでいたが、バニャムレンゲはブルンジ難民から投石の嫌がらせや脅迫を受けるようになった。これは明白にブルンジ難民のフツによるものである。 南北キブ州での大混乱は、ツチとそれ以外の部族との間に敵対感情をもたらした一方、キンシャサ政府は自身の人気獲得のために、この反ツチ感情をあおった。 冷戦終結後、アメリカ、フランス、ベルギーは、利用価値が小さくなったことからモブツを見捨て始め、独裁制を放棄し、多党制による民主化を要求し始めるようになった。結局、1997年には、ザイールでは初の多党制の下での自由選挙が行われることになった。モブツはこの選挙で勝利するために、部族間の対立を利用した。北キヴ州では、旧ハビャリマナ政権のビジムング将軍やルワンダ人難民と共同してフツ族と提携し、南キヴ州では主要な部族、ベンベ、レガ、シ、フレロを見方につけようとした。ベンベ族らは歴史的に反モブツであったので、彼らが嫌っていたバニャムレンゲ(1964年の暴動で政府側について以降、バニャムレンゲは親モブツと考えられていた。)を攻撃材料に使って歓心を買おうとした。第一次コンゴ戦争が始まる頃には、バニャムレンゲが攻撃されるのは時間の問題であるとの認識は、南キヴ州では自明視されていた。バニャムレンゲは自衛のため、キガリから武器を買い付けるだけでなく、ザイール国軍の軍人からも買い付けた。ヒューマン・ライツ・ウォッチも、バニャムレンゲが難民キャンプのインテラハムウェから武器を買っているとの証言を得ている。
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