1971年から1984年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 23:46 UTC 版)
「クリーブランド・ブラウンズ」の記事における「1971年から1984年」の解説
NFLとAFLの統合後、最初のシーズンとなった1971年にはAFC中地区で優勝、1972年もワイルドカードでプレーオフに出場したが初戦で敗れた。1973年にチームはプレーオフ出場を逃し、1974年にはQBにマイク・フィップスとルーキーのブライアン・サイプが起用されたが、2人合計でTDパス10回に対し被インターセプト24回を数えた。ディフェンスもリーグワーストの344失点でチームは4勝10敗と低迷した。スコリッチは解任され、1975年からフォレスト・グレッグがヘッドコーチとなった。 1975年、レギュラーシーズンは開幕から9連敗したが、シンシナティ・ベンガルズ戦でシーズン初勝利をあげると、その3週後のカンザスシティ・チーフス戦では3年目のRBグレッグ・プルイットが214ヤードを走る活躍を見せ、チームは3勝11敗でシーズンを終えた。 1976年には開幕戦で勝利したものの、エースQBのマイク・フィップスは負傷欠場することとなり、その後3連敗したが、控えQBのブライアン・サイプが活躍を見せ、10月10日には2年連続スーパーボウル優勝を果たしているピッツバーグ・スティーラーズに18-16で勝利するなど、最終的に9勝5敗でシーズンを終えグレッグヘッドコーチは最優秀コーチ賞を受賞、グレッグ・プルイットも1000ヤードラッシャーとなった。 1977年もシーズン序盤から好調を維持したが、ブライアン・サイプが11月13日のピッツバーグ・スティーラーズ戦でジャック・ランバートのヒットを受け負傷し、最後の5試合でわずか1勝しかあげられず6勝8敗に終わり、グレッグヘッドコーチは最終週のゲーム前に解雇され、ディック・マゼロウスキが臨時ヘッドコーチとなった。 1978年からサム・ラティグリアーノがヘッドコーチとなり、怪我から復帰したQBサイプが2900ヤードを投げ21TDパスをあげる活躍を見せ、ランニングバックのグレッグ・プルイット、マイク・プルイットが二人合わせて2500ヤードを走ったが、パスディフェンスにもろさを見せて8勝8敗に終わった。 1979年シーズンには開幕から4連勝を果たした。このうち3試合は残り1分または延長による勝利であった。僅差による勝利が続いたチームは"Kardiac Kids"と呼ばれた。サイプはスティーブ・グローガンと共にリーグ最多の28タッチダウンをあげたが、26被インターセプトもリーグ最多であった。マイク・プルイットは1294ヤードを走りプロボウルに選ばれたが、ディフェンスは相変わらず弱点で特にランディフェンスはリーグ最低であり、チームは9勝7敗でヒューストン・オイラーズ、ピッツバーグ・スティーラーズに次いで地区3位に終わった。 1980年にはサイプが4000ヤードを越えるパスを投げ、30TDパス、被インターセプト14回でシーズンMVPに選ばれた。11勝5敗で地区優勝を果たして8年ぶりのプレーオフ出場を果たしたがオークランド・レイダースに12-14と惜敗した。 1981年、サンディエゴ・チャージャーズとの開幕戦となったマンデーナイトフットボールでサイプは57回のパスを投げたが、14-44で敗れた。この年、サイプはタッチダウンパス17回、インターセプト25回に終わり、タイトエンドのオジー・ニューサムがパスレシーブで1004ヤードを獲得、6タッチダウンをあげてプロボウルに選ばれたのが唯一の明るいニュースであった。 1982年にはサイプとポール・マクドナルドの2人が先発QBとして起用された。ストライキで短縮されたこのシーズンは4勝5敗に過ぎない成績だったが、拡大されていたプレーオフに出場し、初戦で敗れた。 1983年にはサイプが復活し26TDパスを投げて3566ヤードを獲得、マイク・プルイットも1184ヤードを走り10TDをあげた。延長戦での勝利を2回あげるなど接戦をものにしたが9勝7敗で惜しくもプレーオフ出場を逃した。 1984年は再建の年となった。QBのサイプはUSFLに移籍し、マイク・プルイットも1984年シーズン終了後にバッファロー・ビルズに移籍した。シーズン1勝7敗となったところでラティグリアーノヘッドコーチは解任され、マーティ・ショッテンハイマーが残り試合の指揮を執り、5勝11敗でシーズンを終えた。
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