1969年加橋脱退、1971年解散
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 03:16 UTC 版)
「ザ・タイガース」の記事における「1969年加橋脱退、1971年解散」の解説
だが、アイドル性を前面にしたプロモーションは、ビートルズやロックを原点とした音楽志向を持っていたメンバーの不満を募らせる。 特に、繊細で芸術家肌だった加橋は渡辺プロに反発。仕事に没頭する沢田との意見の相違が顕著になる。1968年春には加橋の脱退話が浮上していた。加橋の意向を反映してコンセプトアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』が制作され、またヒッピーテイストのコスチュームで路線変更を模索するが、1969年になると加橋脱退は避けられなくなっていた。 加橋は、1969年3月5日、渋谷でのレッスン中にスタジオを離れた後、グループに戻らなかった。代わりに、岸部の弟で、以前からグループをサポートしていた岸部シローが加入し、タイガースの第二期がスタートする。 マスコミは当初、加橋を「失踪」と報道するが、すぐに渡辺プロ主導の芝居だとばれてしまい、渡辺プロは謝罪会見を開く。加橋が抜けてザ・タイガースの人気が下降するのを恐れての芝居だったが、今度は、加橋の一番の理解者でもあった瞳みのるが、渡辺プロに不信感を抱くようになる。 さらに、1969年夏には、グループ・サウンズのブームが急速に沈滞化し、終焉の兆しを見せ始める。音楽シーンが多様化する中で、同年秋からは、グループとしての活動よりもメンバー個々の活動が中心となった。瞳が脱退の意向を示したことも背景にある。1970年になると、4月26日の日本万国博覧会のEXPOホール・水上ステージでの「ザ・タイガース・ショー」、8月22日の田園コロシアムでのコンサートが目立つ程度になった。 メディアによる解散報道が相次ぐ中、ザ・タイガースは1970年12月7日に解散を表明する。翌1971年1月24日の日本武道館における「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」が事実上の解散コンサートとなる。この模様は、ニッポン放送で3時間にわたり生中継され、テレビでは、録画されたものが1月30日にフジテレビで放映された。また、大幅に編集された実況録音盤(ライブアルバム)『ザ・タイガース・フィナーレ』として同年に発売された。なお、この日楽屋ではひと揉めあった。会場の客席に加橋がいることを知って、一徳は「今日が最後なんだから、彼にもステージに上がってもらって歌ってもらったらどうだ」と提案するが、瞳はこれに絶対反対の立場をとり「勝手に辞めた奴を呼ぶなら俺は降りる」と発言、結局加橋がステージに上がることは無かった。コンサートの夜、内田主催で食事会が行われ、5人のメンバー、そして会場の客席にいた加橋も参加する。 解散後、森本、岸部兄弟、沢田は、引き続き芸能活動を行う。一方、瞳は、解散コンサート後の食事会が終わると、トラックに家財道具を積み込み、実家のある京都へ戻り、芸能界を引退する。24歳で高校に復学し、慶應義塾大学へ進学、後に高校教師となり、37年間、他のメンバーと完全に交流を絶つことになる。
※この「1969年加橋脱退、1971年解散」の解説は、「ザ・タイガース」の解説の一部です。
「1969年加橋脱退、1971年解散」を含む「ザ・タイガース」の記事については、「ザ・タイガース」の概要を参照ください。
- 1969年加橋脱退、1971年解散のページへのリンク