1946年から1970年まで
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「ワシントン・コマンダース」の記事における「1946年から1970年まで」の解説
しかし翌年からチームの低迷が始まり、1946年から1951年までの6年間でターク・エドワーズ、ジョン・ウェルチェル、ハーマン・ボール、ディック・トッドと4人のヘッドコーチが就任することとなった。 1950年にアメリカン・オイル・カンパニーがレッドスキンズの全試合をテレビ中継することとなった。これはNFL全チーム中最初の試みであった。1952年にチームはグリーンベイ・パッカーズの元コーチ、カーリー・ランボーをヘッドコーチとして迎えた。しかし2シーズンが経過し、翌年のプレシーズンゲームでロサンゼルス・ラムズに敗れたところでマーシャルオーナーはランボーヘッドコーチを解任した。後任のJohn Kuharichは1955年にチームを10シーズンぶりに勝ち越しさせてSporting News、UPI通信からそれぞれ最優秀コーチに選ばれた。 1961年にチームは新設されたD.C.スタジアムに移転する。このスタジアムは1969年にRFKスタジアムと改称される。スタジアムでの最初の試合には37,767人が詰めかけたが21-7とリードしていながら21-24でニューヨーク・ジャイアンツに敗れた。この年から1965年までヘッドコーチとして指揮を執ったビル・マクピークは21勝46敗3分の成績でチームを去った。しかし彼がヘッドコーチを務めた間にチームはドラフトで将来を有望視されたWRのチャーリー・テイラー、TEのジェリー・スミス、Sのポール・クラウス、Cのレン・ハウス、LBのクリス・ハンバーガーを獲得していた。またトレードでフィラデルフィア・イーグルスからQBのソニー・ジャーゲンセン、ニューヨーク・ジャイアンツからLBのサム・ハフを獲得した。 チームが低迷した理由の1つにマーシャルオーナーの精神状態が1962年から低下していき、チームの難しい問題を判断して舵取りをできるものがいなくなっていた。1969年8月9日、マーシャルオーナーが亡くなると、チームはジャック・ケント・クックに売却された。 南部出身のマーシャルオーナーの黒人嫌いのため、レッドスキンズは長らく白人のみのチームであり、早くから有色人種に門戸を開いていた各チーム(旧AAFCのクリーブランド・ブラウンズなど積極採用するチームもあった)に比べ戦力が劣り、長期低迷の要因の一つとなっていた。 アメリカ合衆国連邦政府やワシントン・ポストの圧力を受けたもののマーシャルオーナーは黒人選手を獲得しようとしなかったがステュアート・リー・ユードル内務長官からの警告を受けて1962年、黒人として初めてハイズマン賞を獲得したアーニー・デービス、アリゾナ大学のハーフバック、ジョー・ヘルナンデス、8巡目ではミシガン州立大学のFBロン・ハッチャーをドラフトで指名した。しかしその後12月、チームはデービスをクリーブランド・ブラウンズに放出しトレードでRB(レッドスキンズの移籍後WRにコンバートされた。)のボビー・ミッチェル、ドラフト1巡目で指名されたリロイ・ジャクソンを獲得した。これはチームにとって幸運でデービスはNFLでプレイすることなく白血病で亡くなってしまったのに対して、ミッチェルはチャーリー・テイラーやRBのラリー・ブラウン、ディフェンスバックのブリッグ・オーウェンス、ピッツバーグ・スティーラーズから加入したガードのジョン・ニスビーなどと並ぶスター選手になり後に殿堂入りを果たした。1962年チームは過去5年で最高の5勝7敗2分、ミッチェルは72回のキャッチでリーグトップの11タッチダウンレシーブをあげてプロボウルに選出された。RBとしてドラフトで獲得したチャーリー・テイラーもWRにコンバートされた。ジャーゲンセンやテイラーも後に殿堂入り選手となった。 1969年、レッドスキンズはスーパーボウルを2度制覇してグリーンベイ・パッカーズのフロントに入り現場を離れていた殿堂入りヘッドコーチ・ヴィンス・ロンバルディと契約した。彼は1955年以来の好成績となる7勝5敗2分とチームを率いたが、1970年シーズン開幕直前の9月にガンのため亡くなりアシスタントコーチのビル・オースティンが指揮を執ったが6勝8敗でシーズンを終えた。
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