1946年インディアナポリス500
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「ルドルフ・カラツィオラ」の記事における「1946年インディアナポリス500」の解説
第二次世界大戦終戦の翌1946年3月、カラツィオラはインディアナポリス・モーター・スピードウェイ(IMS)の副社長であるポップ・メイヤーズ(Theodore "Pop" Myers)から、インディ500に参加しないか打診を受けた。 終戦直後で難しい依頼だったが、スイスには2台のW165が隠されていたことから、その車両を使って参戦できるよう、カラツィオラは奔走した。4月末にはスイスから車両を港まで搬送することはできたものの、船便の手配がつかず、結局、W165を使った参戦は諦めた。 将来に備えてレース観戦だけでもしておこうと考えたカラツィオラは現地に赴き、そこでジョエル・ロブソン(英語版)から車両提供の申し出を受け、それを快諾した。カラツィオラは念のためレーシングスーツなどを持ち込んでいたが、アメリカ自動車協会(AAA)の定めた規則により、当時のアメリカのレースではヘルメットの着用が既に義務付けられていたため、カラツィオラは初めて(リネン製ではない)ヘルメットを被って走行に臨むことになる。 5月28日に行われた練習走行において、カラツィオラに災難が降りかかる。走行中に頭部に何かがぶつかったことにより意識を失い、カラツィオラを乗せた車はフルスピードのまま走り続け、コースを囲っていた木の柵に突っ込んでいった。その衝撃で投げ出されたカラツィオラは後頭部を路面に打ち付けた。ヘルメットがなければ即死していたほどの事故だったが、奇跡的に一命はとりとめ、頭蓋骨には骨折もひびも負わなかった。しかしながら、事故後は数日間に渡って昏睡状態となり、目覚めてからもしばらくの間は記憶障害を起こした。現地で知り合い意気投合していたIMSのオーナーのトニー・ハルマン(英語版)はカラツィオラの療養のために尽力し、カラツィオラは回復するまでハルマンから提供された別荘に数か月に渡って滞在した。
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