1946年の政治危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 19:55 UTC 版)
「ホルヘ・エリエセル・ガイタン」の記事における「1946年の政治危機」の解説
保守党政権が16年ぶりに復活すると、これを機に自由党政権時代の農地改革で土地を失ったサンタンデール県およびボヤカ県の保守系大地主は「コントラチェスマ(窮民制圧隊)」と称する準軍事組織を結成し、自由党系農民への迫害と虐殺を始めた。1946年夏頃から農村部で激化した暴力は多くの農民たちを都市部に追いやり、ボゴタでは難民が3万人に達した。ガイタンはあくまでも非暴力の抵抗運動を提唱し、1948年2月、ボゴタで市民20万人による平和のためのデモを行なった。ガイタンは演説で「我々はただ生命と生活を保証してもらいたいとだけ望んでいるのだ」と檄を飛ばした。3月、ガイタンは警察の暴力に抗議する「沈黙の行進」に10万人を組織。「平和を求める演説」を行なった。オスピナ政権は自由党の圧力に対し、警察力に頼るようになる。
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