117系の投入と新快速の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 15:05 UTC 版)
「京阪神快速」の記事における「117系の投入と新快速の発展」の解説
1980年1月22日には117系が営業運転を開始した。153系の新快速は元有料急行用車両とはいえボックス型の固定シートであったのに対し、京阪間を運行する阪急(6300系)、京阪(3000系)ともに転換クロスシートを備えた特急専用車を使用していた。これら私鉄特急に触発され、運行区間延長への対応と需要喚起策を兼ねて、料金不要車両ながら転換クロスシートを持ち、シートに枕カバーが付き、蛍光灯にもカバーが付く、極端なまでの「標準化」を推進する当時の国鉄としては破格の車両が誕生した。導入にあたって「シティライナー」の車両愛称を付与され、ヘッドマークの公募も行われた。この117系は昭和初期の関西急電の生まれ変わりとも言えるクリーム色と茶色をまとって登場し、この茶色はのちの新快速車両にも受け継がれることになる。117系の評判は良く、153系からの置き換えが急ピッチで行われ、同年7月の時点で6両編成21本が出揃い、7月9日からすべてが117系となった。 この時期、国鉄の普通列車において表定速度が70 km/h以上の列車は44本あり、そのすべてが新快速であった。その中で、京都発大阪行きの新快速「3681M」は京都駅 → 大阪駅間を30分で走行し、ほかの新快速が29分で走っていたことを考えればやや遅い列車であったものの、表定速度は1980年当時の普通列車の中では最速となる85.6 km/hであった。これは、当時の国鉄在来線の全列車の中でも2番目に速いもので、当時最も速い特急であった「加越」5号(表定速度86.1 km/h)以外のすべての特急よりも速かった。 1985年3月14日から、朝夕に各駅停車ながら彦根駅発着列車の運行を開始し、日中の草津駅発着列車が1時間あたり2本に増発された。同時に新大阪駅が停車駅に追加された。高槻駅 - 大阪駅間の最高速度が100 km/hから110 km/hに引き上げられた効果で、新大阪駅に追加停車しても、京都駅 - 大阪駅間を29分で運転できるようになった。これまで新幹線が停車する新大阪駅の通過は、新幹線利用の遠方客を中心に誤乗を招いていたが、パターンダイヤを維持するための新大阪駅通過が解消されることとなった。またそれまで普通・快速と同じ内側線を走っていた新快速のうち、朝夕1往復ずつが外側線を走るようになった。 1986年11月1日の国鉄最後のダイヤ改正からは山科駅に新たに停車し、西明石駅にも全列車が停車するようになり、西側は全列車が姫路駅発着となり、東側も彦根駅と近江舞子駅(湖西線内は各駅停車に変更)まで1時間に1本ずつ延長されるとともに、草津駅 - 彦根駅間で各駅停車であった新快速の停車駅が削減され、現在の停車パターンによる速達運転が開始された。また国鉄分割民営化を控えて、従来国鉄本社直轄だった外側線と列車線が大阪鉄道管理局に開放され、草津駅 - 西明石駅間の複々線区間で新快速はそれまでの内側線・電車線から外側線・列車線走行に変更となり、大阪駅 - 京都駅間と大阪駅 - 神戸駅間でそれぞれ3 - 5分程の時間短縮が図られた。のちに大阪駅 - 新大阪駅間と京都駅 - 草津駅間は平日朝ラッシュ時以外内側線を走行するようになった。またそれまで大阪駅で快速が新快速を待避していたが、これにあわせて快速・新快速と普通の緩急接続に変更された。側窓を下降式としたマイナーチェンジ版の117系100番台が6両×3編成増備される。この時点においても朝夕ラッシュ時には新快速の設定はなく(姫路駅発着は少ないながらも設定されていた)、外側線を走行する快速がラッシュ時の最速列車であった。また国鉄の鉄道管理局の境界が彦根駅 - 米原駅間であり、新快速の東端は彦根駅発着であった。
※この「117系の投入と新快速の発展」の解説は、「京阪神快速」の解説の一部です。
「117系の投入と新快速の発展」を含む「京阪神快速」の記事については、「京阪神快速」の概要を参照ください。
- 117系の投入と新快速の発展のページへのリンク