龍の口の法難とは? わかりやすく解説

龍の口の法難

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 23:32 UTC 版)

日蓮」の記事における「龍の口の法難」の解説

文永8年1271年6月日蓮は、当時関東における真言律宗教団中心者で、非人労働力組織化することで道路橋の建設港湾維持管理などの事業行っていた極楽寺良観忍性)が、旱魃に際して幕府祈雨祈願要請されたことを知り、「7日の間に雨が降るならば日蓮良観弟子となるが、降らないならば良観妙法蓮華経法華経)に帰依せよ」と降雨祈願勝負申し出たが、良観はこれに応じなかった。 (日蓮宗側の伝承では「結果は、日延べしても一滴降らず勝負良観惨敗終わった敗れた良観は、鎌倉浄土教勢力中心人物である良忠道教共同して念仏僧・行敏の名を使って日蓮刑事告発したが、日蓮反論遭い告発成功しなかった。良観次に建長寺道隆とともに北条時頼北条重時未亡人らに働きかけ日蓮処罰工作した。」としている。) 9月10日日蓮幕府召喚され刑事裁判管轄する侍所所司次官)・平左衛門尉頼綱尋問受けた9月12日夕刻平頼綱武装した数百人の兵士率いて日蓮逮捕向かったその際兵士らが松葉ヶ谷草庵経典類を撒き散らし妙法蓮華経法華経)の巻軸をもって日蓮打擲するなどの暴行働いたが、日蓮平頼綱に対して日蓮迫害するならば内乱外国からの侵略不可避であると主張し諫暁した。平頼綱日蓮を馬に乗せて鎌倉中を引き回し佐渡国守護である北条宣時の館に「預かり」とした。 平頼綱内々日蓮斬首する意志固め同日夜半日蓮龍の口刑場へと連行した日蓮斬首の場に臨み、刑が執行されようとする時、江の島方角から強烈な光り物球電)が現れ太刀を取る武士の目がくらむほどの事態になって刑の執行中止された。 この時の体験はその前後日蓮弘教大きく区分する意味を持つ。日蓮「開目抄」で「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑(ねうし)の時にはねられぬ」と述べてそれまで日蓮ひとまず終わった述べている。また「三沢抄」では、自身佐渡流罪以前述べてきた教え釈尊の爾前経のようなのである説いている。日蓮は龍の口の法難以後新たな境地立って弘教歩み開始した佐渡出発する前日10月9日)には初めての文字曼荼羅本尊(「楊枝本尊」と称される)を図顕している。 斬首免れた日蓮は、直ち相模国依智(現在の神奈川県厚木市依知)にある佐渡国守護代本間六郎左衛門重連の館に護送され1箇月ほどそこに留め置かれた。その間幕府内部日蓮処分について評議され、最終的に佐渡国への流罪決定した。この法難迫害受けたのは日蓮一人ではなく鎌倉門下260余人リストアップされ、逮捕・監禁追放所領没収などの処分受けた。この法難鎌倉における日蓮教団壊滅意図する大規模な弾圧であり、蒙古襲来危機対応するため幕府異を唱える悪党」を鎮圧する防衛体制強化一環としてなされた考えられている。

※この「龍の口の法難」の解説は、「日蓮」の解説の一部です。
「龍の口の法難」を含む「日蓮」の記事については、「日蓮」の概要を参照ください。

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