龍の口の法難
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文永8年(1271年)6月、日蓮は、当時、関東における真言律宗教団の中心者で、非人の労働力を組織化することで道路や橋の建設、港湾の維持管理などの事業を行っていた極楽寺良観(忍性)が、旱魃に際して幕府に祈雨の祈願を要請されたことを知り、「7日の間に雨が降るならば日蓮が良観の弟子となるが、降らないならば良観が妙法蓮華経(法華経)に帰依せよ」と降雨祈願の勝負を申し出たが、良観はこれに応じなかった。 (日蓮宗側の伝承では「結果は、日延べしても一滴の雨も降らず、勝負は良観の惨敗に終わった。敗れた良観は、鎌倉浄土教勢力の中心人物である良忠や道教と共同して念仏僧・行敏の名を使って日蓮を刑事告発したが、日蓮の反論に遭い、告発は成功しなかった。良観は次に建長寺道隆らとともに北条時頼、北条重時の未亡人らに働きかけ、日蓮の処罰を工作した。」としている。) 9月10日、日蓮は幕府に召喚され、刑事裁判を管轄する侍所の所司(次官)・平左衛門尉頼綱の尋問を受けた。9月12日夕刻、平頼綱は武装した数百人の兵士を率いて日蓮の逮捕に向かった。その際、兵士らが松葉ヶ谷の草庵に経典類を撒き散らし、妙法蓮華経(法華経)の巻軸をもって日蓮を打擲するなどの暴行を働いたが、日蓮は平頼綱に対して日蓮を迫害するならば内乱と外国からの侵略は不可避であると主張し、諫暁した。平頼綱は日蓮を馬に乗せて鎌倉中を引き回し、佐渡国守護である北条宣時の館に「預かり」とした。 平頼綱は内々で日蓮を斬首する意志を固め、同日夜半、日蓮を龍の口の刑場へと連行した。日蓮が斬首の場に臨み、刑が執行されようとする時、江の島の方角から強烈な光り物(球電)が現れ、太刀を取る武士の目がくらむほどの事態になって刑の執行は中止された。 この時の体験はその前後で日蓮の弘教を大きく区分する意味を持つ。日蓮は「開目抄」で「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑(ねうし)の時に頸はねられぬ」と述べて、それまでの日蓮はひとまず終わったと述べている。また「三沢抄」では、自身が佐渡流罪以前に述べてきた教えは釈尊の爾前経のようなものであると説いている。日蓮は龍の口の法難以後、新たな境地に立って弘教の歩みを開始した。佐渡に出発する前日(10月9日)には初めての文字曼荼羅本尊(「楊枝本尊」と称される)を図顕している。 斬首を免れた日蓮は、直ちに相模国依智(現在の神奈川県厚木市依知)にある佐渡国守護代・本間六郎左衛門重連の館に護送され、1箇月ほどそこに留め置かれた。その間、幕府内部で日蓮の処分について評議され、最終的に佐渡国への流罪と決定した。この法難で迫害を受けたのは日蓮一人ではなく、鎌倉の門下260余人がリストアップされ、逮捕・監禁、追放、所領没収などの処分を受けた。この法難は鎌倉における日蓮教団の壊滅を意図する大規模な弾圧であり、蒙古襲来の危機に対応するため幕府に異を唱える「悪党」を鎮圧する防衛体制強化の一環としてなされたと考えられている。
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