黒人の地位向上の提唱
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「ウィリアム・O・ブラッドリー」の記事における「黒人の地位向上の提唱」の解説
ブラッドリーはケンタッキー州における黒人の地位向上に貢献した。人種差別が動機のリンチを非難し、郡当局が人種に関わる暴力行為を告発するよう要求した。1897年3月に議会の特別会期を招集し、500ドル以下の科料を含む罰を科すること、またリンチや暴徒の暴力を妨げなかった治安維持役人をその職から排除するという反リンチ法案を検討させた。治安維持役人が囚人を保護するために有能な男を徴募することを認め、必要ならばそれができなかった者に罰金を科すことも求めた。議会は政党で二分されていたが、この法案は両院を迅速に通過し、1897年5月11日ブラッドリーが署名して法制化された。1898年1月、ブラッドリーはオハイオ州スプリングフィールドで反暴徒・リンチ法制化協会の場で講演を行うよう招待された。ブラッドリーの知事として4年間の任期の間に、州内で25件のリンチが発生したが、前任者の任期中にあった56件よりは減少していた。 ブラッドリーの人種差別暴力に対する反対を特徴づける顕著な例として、元奴隷のジョージ・ディニングの件があった。ディニングは解放された後で、シンプソン郡で農園を購入できるだけの金を貯めた。1897年1月27日、25人の武装した白人暴徒がディニングの農園に来て、豚と鶏を盗んだと非難し、10日以内に郡を出ていくよう要求した。ディニングは窃盗を否定し、郡内の何人かにその善良な性格を保証してくれるよう求めた。ディニングの抵抗に怒った暴徒はその家に火を付け、ディニングを2度傷つけた。ディニングは家から銃を持ち出し、暴徒に発砲して1人を殺した。暴徒は逃亡し、翌日ディニングは土地の当局に出頭した。ディニングが拘置所にいる間に暴徒がその農園に戻り、ディニングの家族を家から追い出し、略奪し、家を燃やし尽くした。 シンプソン郡保安官がディニングをボーリンググリーンに、続いてルイビルに移し、リンチを受けないようにした。ブラッドリー知事は州兵の1部隊を送って、裁判が進行する間のディニングを保護した。この事件は黒人が白人を殺したという事実があるにも拘わらず、多くの者はディニングが正当防衛で無罪になると考えていた。しかし陪審員はディニングを故殺で有罪とし、7年間の重労働刑と宣告した。その直後からブラッドリーの事務所は、ディニングのために干渉してくれという要請で溢れた。この要請は黒人からも白人からも来ており、その中には元南軍支持者もいた。ディニングの弁護士オーガスタス・E・ウィルソンが正式に恩赦を要求し、ブラッドリーは有罪判決から10日後に恩赦を発行した。ブラッドリーは、ディニングが置かれた状況下で理性的に行動しており、暴徒の中で誰も告発されないのは恥だと考えた。ディニングは釈放された後、インディアナ州に移り、元南軍支持者のベネット・H・ヤングを雇って、自分の裁判の間に暴徒に含まれていたことが分かった者達に対する訴訟を連邦裁判所に起こした。その裁判はルイビルで開かれ、ディニングはその受けた損傷に対して5万ドルが支払われた。 1898年1月、ブラッドリーは議会に対する演説の中で、州の客車分離法を撤廃するよう提案した。これは白人と黒人で客車を分けることを規定していた。ブラッドリーはかなり多くの黒人を指名して、通常受けるよりも多くの政府の清掃員の職を受けられるようにした。ケンタッキー州立カレッジ(後のケンタッキー大学)の理事会に初の黒人であるエドワード・E・アンダーウッドを指名した。黒人の地位向上に献身したことで、ウィリアム・デッカー・ジョンソンが1897年に編集した『ケンタッキー州の顕著な黒人男性と女性の伝記的スケッチ』の中に唯一の白人として含まれることになった。
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