高校日本史教科書執筆と教科書裁判
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「家永三郎」の記事における「高校日本史教科書執筆と教科書裁判」の解説
詳細は「家永教科書裁判」を参照 家永は、戦後間もなく編纂された歴史教科書『くにのあゆみ』の執筆者の1人であったが、その後長く高校日本史教科書『新日本史』(三省堂発行)の執筆を手がけた。通常、歴史教科書は、専門分野を異にする複数の著者によって執筆されるが、『新日本史』は、全体の照応、前後の照応や教科書著述の一貫性を貫くため、家永の単独著作で発行された。 背景として、1955年8月13日に日本民主党が発行した『うれうべき教科書の問題』があった。この小冊子では教科書の偏向(教員組合をほめたてるもの、急進的な労働運動をあおるもの、ソ連中共を礼賛するもの、マルクス・レーニン主義の平和教科書の四つに分類して具体的記述が列挙されていた)が批判されているが、教科書執筆者有志が9月に入り、「小冊子の書き方は故意に一部を抜き出し、煽動的な文章を勝手に付け加えて記述の意味を捻じ曲げ、これに政治的な中傷を加えるというやり方に終始している」と抗議を行った。執筆者のうち長洲一二や日高六郎は経過を発表した上で執筆を辞退したが、家永のみが執筆を続けたのである。山住は、この小冊子で取り上げられたような記述の内容を引用して例示し、「偏向という事実は存在しない」と主張することはしていない。この記述形式は波多野澄雄の著書にも見られる。教科書誤報事件も参照されたい(韓国では「『侵略を進出に書き換えた』と報じられたが、では書き換えたという教科書の現物を見せてほしい」と言われても現物がなかった、という出来事が起こっている。書き換えという事実がないので現物が存在しようがないのである)。また、家永自身も『うれうべき教科書の問題』について自著で触れているが、やはり記述の引用は行っていない。[独自研究?] 自身の執筆した日本史教科書における南京大虐殺、731部隊、沖縄戦などについての記述を認めず、検定基準を不当に解釈して理由をこじつけた文部省に対して、検定制度は違憲であるとして三次の裁判を起こし、教科書検定を巡る問題を世間に広く知らしめた。家永は「この訴訟は……究極において人類の破滅を阻止するための人類史的課題を背負っている」と言い切っている。訴訟における最大の争点であった「教科書検定は憲法違反である」とする家永側主張は、最高裁で「一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから、検閲にあたらない」として、家永側の主張の大部分が退けられ、家永側の実質的敗訴が確定した。一方で、個別の検定内容については一部が不当とされ、家永側の主張が容れられた。 教科書の発行、自由発行・自由採択であるべきだ、とする持論を教科書裁判提訴の頃より一貫して明らかにしており、80年代半ばの『新編日本史』を巡る議論が盛んだった時期は、記者の取材に「立場は違うが、検定で落とせとは口が裂けても言えない」と語り検定を否定し続けた。
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