馬術競技馬時代とは? わかりやすく解説

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馬術競技馬時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 16:18 UTC 版)

アスコツト」の記事における「馬術競技馬時代」の解説

競走馬引退後は種牡馬入りの道もあったが、オリンピック用の馬術競技馬として転用の話が持ち上がり同年5月25日には多賀尾形東久邇宮稔彦邸を訪れアスコット寄贈した東久邇宮アスコット訓練陸軍騎兵学校依頼しロサンゼルス五輪障害飛越競技金メダリスト西竹一担当者となった。西が金メダル獲得した時の騎乗馬ウラヌスフランス産馬であり、ベルリンでは国産馬でのメダル獲得期待され、これを託されたのがアスコットであったその後訓練続けられ1936年、ドイツ・ベルリンでの夏季オリンピック臨んだ。この大会には日本から3頭が出場し障害飛越代表馬前回大会優勝馬ウラヌスであったアスコツト総合馬術での出場で、初日馬場馬術であった。その馬体競技委員長グスターフ・ラウより「非常に立派な注目に値する日本産純血馬」との評価受けたが、肝心競技では西との呼吸合わず34位と出遅れた。しかし2日目野外耐久審査では、途中で沼に填るアクシデントありながら5位に入り総合11位に上昇最終日障害飛越も、設置障害黄木一本落とした無難にこなし、最終的に50頭中12位の成績オリンピック終えた。後に西は「綜合順位では三着以内には入れなかったが、その功績三等以内入れ資格持っていたと断言できる」「我が国産馬の能力が優秀で、堂々世界各国駿馬に互して劣らないことを示したのが本大会一大収穫だった」と賛辞送った尾形は「アスコット数々難関切り抜けて野外騎乗ゴール入ったという報告聞いたときは、競馬勝った時よりうれしかった」と述懐し、さらに「アスコットはもう1年調教した国際競技用馬として大成したと思う。何し素性がよく、精神がよいから、教えられたとおりによく覚える馬だった」と語っている。 なお、アスコットの他に五輪馬術競技日本代表となった競走馬には、1976年モントリオール大会総合馬術出場したインターニホン、1988年ソウル大会と1992年バルセロナ大会障害飛越出場したミルキーウェイ競走名:シルバータイセイ)がいる。前者野外耐久審査途中棄権して失権失格)、後者それぞれの大会で67位・39位という成績であったその後アスコット1940年予定されていた東京オリンピック向けて訓練積んでいたが、盧溝橋事件発生第二次世界大戦激化への過程同大会は中止となり、アスコット2度目挑戦もここで途絶えたその後アスコット1941年頃まで全国馬術競技会に出場した後、東京都長官寄贈されたと伝えられているが、戦況悪化による混乱もあり、没年最期について明らかになっていない

※この「馬術競技馬時代」の解説は、「アスコツト」の解説の一部です。
「馬術競技馬時代」を含む「アスコツト」の記事については、「アスコツト」の概要を参照ください。

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