馬術競技馬時代
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競走馬引退後は種牡馬入りの道もあったが、オリンピック用の馬術競技馬として転用の話が持ち上がり、同年5月25日には多賀と尾形が東久邇宮稔彦邸を訪れ、アスコットを寄贈した。東久邇宮はアスコットの訓練を陸軍騎兵学校に依頼し、ロサンゼルス五輪障害飛越競技の金メダリスト・西竹一が担当者となった。西が金メダルを獲得した時の騎乗馬・ウラヌスはフランス産馬であり、ベルリンでは国産馬でのメダル獲得が期待され、これを託されたのがアスコットであった。その後訓練が続けられ、1936年、ドイツ・ベルリンでの夏季オリンピックに臨んだ。この大会には日本から3頭が出場し、障害飛越の代表馬は前回大会の優勝馬ウラヌスであった。 アスコツトは総合馬術での出場で、初日は馬場馬術であった。その馬体は競技委員長グスターフ・ラウより「非常に立派な、注目に値する日本産純血馬」との評価を受けたが、肝心の競技では西との呼吸が合わず34位と出遅れた。しかし2日目の野外耐久審査では、途中で沼に填るアクシデントがありながら5位に入り、総合11位に上昇。最終日の障害飛越も、設置障害の黄木一本を落としたが無難にこなし、最終的に50頭中12位の成績でオリンピックを終えた。後に西は「綜合の順位では三着以内には入れなかったが、その功績は三等以内に入れる資格を持っていたと断言できる」「我が国産馬の能力が優秀で、堂々世界各国の駿馬に互して劣らないことを示したのが本大会の一大収穫だった」と賛辞を送った。尾形は「アスコットが数々の難関を切り抜けて野外騎乗でゴールに入ったという報告を聞いたときは、競馬で勝った時よりうれしかった」と述懐し、さらに「アスコットはもう1年も調教したら国際競技用馬として大成したと思う。何しろ素性がよく、精神がよいから、教えられたとおりによく覚える馬だった」と語っている。 なお、アスコットの他に五輪馬術競技で日本代表となった元競走馬には、1976年モントリオール大会の総合馬術に出場したインターニホン、1988年ソウル大会と1992年バルセロナ大会の障害飛越に出場したミルキーウェイ(競走名:シルバータイセイ)がいる。前者は野外耐久審査で途中棄権して失権(失格)、後者はそれぞれの大会で67位・39位という成績であった。 その後アスコットは1940年に予定されていた東京オリンピックに向けての訓練を積んでいたが、盧溝橋事件の発生・第二次世界大戦激化への過程で同大会は中止となり、アスコットの2度目の挑戦もここで途絶えた。その後アスコットは1941年頃まで全国の馬術競技会に出場した後、東京都長官に寄贈されたと伝えられているが、戦況悪化による混乱もあり、没年や最期については明らかになっていない。
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