食肉加工産業の発展
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「フライ・ベントス」の記事における「食肉加工産業の発展」の解説
「フライ・ベントス (食品ブランド)(英語版)」も参照 歴史的にフライ・ベントスは食肉加工産業を主産業としてきた。1847年にドイツの化学者のユストゥス・フォン・リービッヒが、高価であった本物の肉を買う余裕のない人々のために安価で栄養価の高い肉の代替品を供給することを目的として、「リービッヒ肉エキス」と呼ばれる濃縮牛肉エキスを開発した。その後、1862年にドイツ人技師のゲオルク・クリスティアン・ジーベルトが肉エキス生産の産業化を目指し、リービッヒの同意と起業家および牧場経営者の支援を得て、Societé de Fray Bentos Giebert & Cie., を設立し、フライ・ベントスに肉エキス生産の試験工場を建設した:223–227。1864年末までに、12,000英ポンドに相当する50,000ポンドの量の肉エキスが輸出および販売された。1865年にはリービッヒ肉エキス会社(英語版)(Liebig Extract of Meat Company, LEMCOの略称で知られる)がイギリスで設立され、後に「オキソ(英語版)」(Oxo)の名称で販売されることになる牛肉エキス製品の製造を行った。 工場の製品は非常に人気を博し、ヨーロッパの中流階級の家庭における定番商品となった。1860年代後半までに、ロンドンのセント・トーマス病院(英語版)は、年間12,000ポットの消化の容易な肉エキスを使用したと伝えられている。1875年までに、毎年500トンの肉エキスがフライ・ベントスの工場で生産されていた。また、貯蔵安定性、輸送のしやすさ、そして使い勝手の良さから南北戦争中の兵士に推奨され、第二次世界大戦の時点においても連合軍によって使用されていた。 1873年に工場はコンビーフの缶詰の生産を開始し、「フライ・ベントス」の名称で販売された。「フライ・ベントス」は1881年にリービッヒ肉エキス会社によって商標登録された。「フライ・ベントス」のコンビーフは、労働者階級の市場をターゲットとしていた。缶の重量はわずかに1ポンドで持ち運びが容易であったため、軍隊の食料としても理想的であった。アフリカではボーア戦争の勃発に伴い、南アフリカのイギリス軍にコンビーフを供給することによって同社の利益は大幅に増加した。また、「フライ・ベントス」のコンビーフは第一次世界大戦の軍隊にも供給された。その人気は非常に高く、「フライ・ベントス」という用語は兵士によって「Good」という意味のスラングとして使用されていた。パッシェンデールの戦いで投入されたイギリス軍の初期の戦車の1つには、乗り込んでいる人が缶詰の肉のようであったことから「フライ・ベントス」というニックネームが付けられていた。さらに同社は冷凍設備を導入し、最終的に冷凍および冷蔵された生肉の生産と輸出をすることが可能となった。世界中に出荷され、加工された食品の量により、フライ・ベントスの町は「世界の台所」と呼ばれるようになった。 1924年にリービッヒ肉エキス会社は「フライ・ベントス」の商標と共にヴェスティ・グループ(英語版)に買収され、「アングロ食肉加工工場(英語版)」の名でも知られる、Frigorífico Anglo del Uruguay に改名された。
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