類似話
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オーストラリアには良く似たストーリーの「太陽の消えたとき」というおとぎ話が伝わっている。 この話では、カンガルーを大将とする動物たちと、エミューを大将とする鳥たちが大戦争を繰り広げる。動物からも鳥からも仲間扱いされていなかったコウモリは、どちらかの勝利に貢献すれば仲間にしてもらえると考えた。最初は鳥が優勢だったので、コウモリは得意のブーメランを武器にして鳥の味方をした。だがしばらくすると動物が盛り返したので、コウモリは動物側に寝返る。やがてカンガルーとエミューの一騎討ちになるが、お互いに争いが馬鹿らしくなっており、仲直りしようということになる。コウモリは勝ち負けがなくなったことにがっかりして洞窟に帰っていった。 しかし平和は戻ったが、今度は太陽が昇らなくなるという大事件が起こった。太陽は争いを繰り広げる鳥と動物に呆れ果てて、空に顔を出すのをやめてしまったのだ。動物と鳥たちは太陽が帰ってくるよう知恵を絞ったが、誰一人としてその方法が思いつかなかった。だがしばらくしてトカゲが、コウモリに頼めば何とかしてくれるのではないかと提案する。カンガルーとエミューからの懇願を受けたコウモリが、地平線に向かって3度ブーメランを投げると、太陽は再び顔を出した。それ以来動物と鳥は恩を忘れず、朝日の出る頃にコウモリを見かけても、いじめたりしないようになったという。
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類似話
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「子どもたちが屠殺ごっこをした話」の記事における「類似話」の解説
井原西鶴の裁判小説集・『本朝桜陰比事(ほんちょうおういんひじ)』巻四の二「善悪二つの取物」に、上記の第1話と類似しているが微妙に結末の異なる話が見られる。話のあらすじは以下の通りである。 昔、京の町で子供たちが集まって遊んでいた時、(数え年で)七歳の子が不用意に小刀を手にして九歳の子を刺し、死なせてしまった。加害者の家族は「まだ思慮分別のない子供だから、どうか死罪にしないでもらいたい」と懇願したが、被害者の遺族は何としても加害者を死罪にしてもらいたいと譲らない。双方の訴えを聞いた奉行は、おもちゃの人形と小判を用意し、「その子が小判を取ったら、価値判断の分別があるものと見なして死罪とし、人形を取ったら命を助ける事とする。明日は必ずその子を連れて出頭せよ」と告げて、その日は一同を解散させた。家に戻った加害者の家族は、奉行が用意したものと同じ人形と小判を加害者に見せて、「小判を取ったら殺されるのだよ」と一晩中繰り返し教え、翌朝にもよく言い聞かせてから奉行所に出頭した。一同が見守る中、奉行が「人形を取れば命を助け、小判を取れば死罪にするぞ」と言いながら加害者の前に人形と小判を出してみせると、加害者は歩み寄って小判を取った。これを見た被害者の遺族は「この通り、この者は不敵な悪人でございます」と言って加害者の死罪を要求し、加害者の家族は絶望のあまり声を上げて泣いたが、奉行は意外にも、「この子が何の思慮分別もない子供である事がよく分かった。小判を取れば死罪にすると言われたにも関わらず、この子は平気で小判を取った(つまりこの子は死罪の意味さえも分かっていない)ことから、それは明らかである」と言い、加害者を死罪にせず命を助ける判決を下した。 この話は、殺人事件の加害者が思慮分別のない子供である点、また裁判の方法として、子供が喜びそうな品物と金貨を加害者に見せ、加害者が金貨を取ったら死刑、もう一方の品物を取ったら無罪とする条件においては上記のグリム童話と共通している。しかし、最終的に加害者がどちらを取っても死刑を回避できるように配慮されている点において、グリム童話とは異なる日本の文化の独自性を見ることができる。なお、『本朝桜蔭比事』が出版されたのは元禄2年(1689年)で、グリム童話集の初版本(1812年)が出版されるよりも以前であるが、『本朝桜蔭比事』の元禄2年刊の初版本は現存していない。
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