静坐の心構え(岡田虎二郎先生語録より)
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「岡田式静座法」の記事における「静坐の心構え(岡田虎二郎先生語録より)」の解説
あえて求むるなかれ。無為の国に静坐せよ。坐するに、方三尺のところあらば、天地の春はこの内にみなぎり、人生の力と、人生の悦楽とはこの中に生ずる。静坐は真に大安楽の門である。 静坐するには何らかの希望を持ってはいかぬ。静坐して悟りを開こうなどと思うのは間違いである。 無念無想になろうとか、精神統一とか、精神集中なんどは一切考えてはいけません。 眠っているような状態を求めるのは誤りである。過去を思わず未来を考えず、妄想を起こさずに、ただ姿勢を正しくして腹に力を入れることだけを考えればよい。 つねに身体の重心を安定させることを心がけていればよい。身体が定まらないで心を静かにしようとするのは、桶を揺り動かして、中の水を静かにしようとするようなものである。 静坐の姿勢は自然法に合する姿勢だ。五重の塔が倒れぬのは、垂直線がしっかりしていて物理的均整をたもっているからだ。静坐の姿勢で坐っていると前後左右から突かれても倒れない。 体の垂直線がきまれば心の垂直線もきまって、泰然たる静寂も、不敵の胆力もこれから生まれる。 まず、先に腰をきめる。腰を立てよ、一番大切なことを忘れてはいかぬ。大木が根を張ったように。 このままじっとして、呼吸を静かに、鼻から長く息を吐き出しながら、お腹へ、できるだけ力を入れていただきます。 一息一息に満身の力がこの一点(丹田)に集まるように。 無念無想になろうとするな、ただ油断なきこと。腹の力を抜かぬこと。 静坐中いろんなことが思われるのは、思うまいとしないで、風の通るように勝手に通らせておいて、心を丹田の方にもって来るのです。静坐中、丹田の力を忘れたりしてはいけません。 嫉妬、憎悪、憤怒、野心、疑心、その他の悪徳のおこる時は、丹田の力が抜けています。 われわれはいつも心を平和にして下腹に満身の力を入れていて、悲哀、怨恨、憤怒、嫉妬等のごときあらゆる悪徳を心にとどめてはならぬ。寒暑の変化、黴菌の侵害等、すべて外物の刺激のために、わが心身を制せられてはいかぬ。これらのために侵害せらるるは、畢竟、我が方に油断があり、すきがある故である。 ヤジロベエという玩具は、これを指頭にのせ千変万化に動かしても倒れない、落ちない。ヤジロベエを見ればよくわかる。これが静坐の根本である。 静坐の姿勢は厳格でなければならぬ。少しくらい間違っても、肉体上には相当の功を収めるが、本当に人格を完成することはできぬ。 静坐していれば智・徳・体、皆発達する。人は心身さえ修養により改造し得ば、誰人の頭も有為の能力を発揮する。 いわゆる静坐は静坐の本義ではない。行住坐臥、一挙手一投足が静坐にならねば駄目だ。 一呼吸、一呼吸に自己という大芸術品を完成せよ。 丹田の外の力はすっかり抜いて。 まあ黙ってお坐りなさい。
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