青森県庁での活動
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県立の看護教育施設創設に伴い、様々な手続きや整備を目的とし、青森県庁内に衛生部看護係が創設された。その係長として、看護教育施設を唱えた本人である花田に白羽の矢が立った。前述した看護学院の開校前年の1950年(昭和25年)、花田は八戸赤十字病院を退職し、青森県衛生部看護係長に就任した。これは青森の保健婦指導の頂点ともいえる役職である。当時は、肩書を持つ女性は異例であった上、県庁の係長職は、10数年のキャリアを持つ男性でも就任の難しい職務であった。その係長に青森で初めて女性が、それも外部からの人間が就任したことは、当時のマスコミで話題となった。 1955年(昭和30年)には、東北地方でも伝統的に健康保険組合の活動が盛んな岩手県を視察し、岩手県国民健康保険団体連合会の保健活動を学んだ。帰郷後、青森県国民健康保険団体連合会の協力を得、岩手の活動を青森県内へ広めることへ貢献した。この活動において住民たちと健康問題についての意見交換の末、すでに駐在保健婦で実績を挙げている高知県などに倣い、青森でも各地へ保健婦を置くべきとの考えに至った。 1964年(昭和39年)、全国最悪を記録した青森県の乳児死亡率の解決策として、保健婦・助産婦団体による「もったらころすな運動」を推進(『もったら』は『妊娠したら』の意)した。妊婦たちに胎児を死なせることのないよう呼びかけ、早期に役場へ届けた妊婦へは特典として晒を配った。これにより乳児死亡率解決とともに、保健婦たちが地域に密着した地道な活動の中、訪問先の家庭で人間関係を築くなど、多くの経験を積むことができる効果も生まれた。 この当時、青森県内の全町村の約半分は保健婦が不在であり、その大部分は僻地であった。僻地の赴任を望む保健婦はわずかであり、各町村も財政が厳しいという事情があったのである。この打開策として翌1965年(昭和40年)、花田考案による「派遣保健婦制度」が開始された。県立高等看護学院の卒業生を青森県職員として採用し、各町村へ派遣し、町村からは負担金を出すという制度である。この制度により、県職員としての勤務までの数年の我慢として僻地へ赴任する保健婦が増え、中にはそこで結婚相手と巡り合い、僻地に定住する保健婦も現れるといった効果が生み出されていた。1962年(昭和37年)時点では29の町村に保健婦の不在であったが、1971年(昭和46年)にはそれらに2名以上の保健婦が在勤する体制が整えられ、保健婦不在の町村は皆無となった。当時の青森県知事であった竹内俊吉は、従軍記者の経歴を持つために花田と似た境遇であり、派遣保健婦制度の維持は竹内と花田の指導力の賜物とも見られている。 1973年(昭和48年)に青森県を退職。退職時の役職は衛生看護指導監で、当時の女性県職員としては最高のものであった。同1973年に第一生命保険主宰の保健文化賞を受賞、翌1974年(昭和49年)に東奥日報社主催の東奥賞を受賞した。
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