青森県庁での活動とは? わかりやすく解説

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青森県庁での活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 20:01 UTC 版)

花田ミキ」の記事における「青森県庁での活動」の解説

県立看護教育施設創設に伴い様々な手続き整備目的とし、青森県庁内に衛生部看護係が創設された。その係長として、看護教育施設唱えた本人である花田白羽の矢立った前述した看護学院の開校前年の1950年昭和25年)、花田八戸赤十字病院退職し青森県衛生部看護係長就任した。これは青森保健婦指導頂点ともいえる役職である。当時は、肩書を持つ女性異例であった上、県庁係長職は、10数年キャリアを持つ男性でも就任難し職務であった。その係長青森初め女性が、それも外部からの人間就任したことは、当時マスコミ話題となった1955年昭和30年)には、東北地方でも伝統的に健康保険組合活動盛んな岩手県視察し岩手県国民健康保険団体連合会保健活動学んだ帰郷後、青森県国民健康保険団体連合会協力を得、岩手活動青森県内へ広めることへ貢献した。この活動において住民たちと健康問題についての意見交換の末、すでに駐在保健婦実績挙げている高知県などに倣い青森でも各地保健婦を置くべきとの考え至った1964年昭和39年)、全国最悪記録した青森県乳児死亡率解決策として、保健婦助産婦団体による「もったらころすな運動」を推進(『もったら』は『妊娠したら』の意)した。妊婦たちに胎児死なせることのないよう呼びかけ早期役場届けた妊婦へは特典として晒を配った。これにより乳児死亡率解決とともに保健婦たちが地域密着した地道な活動の中、訪問先家庭人間関係を築くなど、多く経験を積むことができる効果生まれた。 この当時青森県内の全町約半分保健婦不在であり、その大部分僻地であった僻地赴任を望む保健婦はわずかであり、各町村財政が厳しいという事情があったのである。この打開策として翌1965年昭和40年)、花田考案による「派遣保健婦制度」が開始された。県立高等看護学院卒業生青森県職員として採用し、各町村派遣し町村からは負担金を出すという制度である。この制度により、県職員としての勤務までの数年我慢として僻地赴任する保健婦増え中にはそこで結婚相手巡り合い僻地定住する保健婦現れるといった効果生み出されていた。1962年昭和37年時点では29町村保健婦不在であったが、1971年昭和46年)にはそれらに2名以上の保健婦在勤する体制整えられ保健婦不在町村皆無となった当時青森県知事であった竹内俊吉は、従軍記者経歴を持つために花田似た境遇であり、派遣保健婦制度維持竹内花田指導力賜物とも見られている。 1973年昭和48年)に青森県退職退職時の役職衛生看護指導監で、当時女性職員としては最高のものであった。同1973年第一生命保険主宰保健文化賞受賞、翌1974年昭和49年)に東奥日報社主催東奥賞を受賞した

※この「青森県庁での活動」の解説は、「花田ミキ」の解説の一部です。
「青森県庁での活動」を含む「花田ミキ」の記事については、「花田ミキ」の概要を参照ください。

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