離村・廃村の要因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:36 UTC 版)
「丹後町の離村・廃村」の記事における「離村・廃村の要因」の解説
丹後半島では明治期以降で少なくとも67の集落が廃村となり、このうちの39集落は1963年(昭和38年)の三八豪雪以降に廃村となった。明治以降の近代化に伴って山間部の人口は徐々に減少していたところに、1955年(昭和30年)以降の高度経済成長と1963年(昭和38年)冬の豪雪が拍車をかけて、急速かつ大量の離村現象を引き起こしたものである。 地域的にみると大半が標高100メートル以上の高地にあり、多くは標高200〜400メートルに位置した。もともと寒冷で積雪が多く、平野部が少なく傾斜地が多いために日照時間が短く、農耕による生産性が低い集落がほとんどであった。交通の便が悪く戸数も少ないことから、廃村に到るまでついに電灯が付かなかった地域もある。丹後半島部では竹野川以東に多く、丹後半島東部の高原地帯や谷頭部にあった集落が大部分を占める。また、宮津市周辺では、天橋立以北の橋北地区に廃村現象がおおく見られ、中でも最も早い段階で廃村化したのは「牧」集落で、1957年(昭和32年)のことであった。その後、隣接する岩滝町の「蛇谷」集落を含めて9集落で、また、1976年(昭和51年)には橋南地区の「嶽」集落でも廃村現象が見られたことより、廃村現象は丹後半島東部の高原から南下して進んでいるのではないかとも考えられている。 丹後半島では、昭和期以前にもいくつかの廃村はあったが、大正期の離村傾向は第一次世界大戦後の貧しさからとくに耕地が少なく借金を抱えていた生活困難者がいわば夜逃げ同然に村を去ったもので、多くは記録が残されていない。比較的記録が残る昭和期以降で離村時期を大別すると、昭和初期の経済恐慌や1927年(昭和2年)の北丹後地震の影響によるものと、昭和30年代以降の経済格差の拡大や産業の変化によるものとのの2期に分けることができる。
※この「離村・廃村の要因」の解説は、「丹後町の離村・廃村」の解説の一部です。
「離村・廃村の要因」を含む「丹後町の離村・廃村」の記事については、「丹後町の離村・廃村」の概要を参照ください。
- 離村・廃村の要因のページへのリンク