離村2期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:36 UTC 版)
離村1期よりも離村者が多く、廃村が著しく増えた。また、離村1期は元集落から近いところへの移動だったが、この時期になると通って耕作することのできる範囲を超え、中遠距離の集落へ移動するようになる。1955年(昭和30年)以降、高度経済成長期に入り都市部および工業地域と農山村地域との経済格差が広がり、現代的な生活様式への憧れを抱く者も増えたことが要因である。多くの村々で生業としてきた農林業を捨て、丹後地域に新しく進出してきた西陣機業やその他の業種へ従事する人が出るようになった。さらに、廃村化に追い打ちをかけたのが1963年(昭和38年)冬にこの地域を襲った豪雪である。平地においても積雪2メートルを越したところもあった。山間部では6メートルにも達した豪雪により、交通が遮断され、標高の高いところにあった集落は孤立。食糧難に陥り、建物への被害も重なり、山間部からの人口流出を加速させた。特に、丹後町と弥栄町の山間部からは多くの集落が消滅することとなった。 丹後町上宇川地域にあった虎杖小学校では、校区の5集落のうち4集落がわずか11年の間に相次いで廃村となった。1977年(昭和52年)に発刊された虎杖小学校の教諭であった詩人・池井保の著書『亡び村の子らと生きて 丹後半島のへき地教育の記録』は、この時期の村々の様子を克明に記録し、同じく丹後半島で地域教育を実践した渋谷忠男により、「日本列島に茶色くぬられた地域が、高度経済成長のいけにえにされたときの、たたかいの記録」と評されている。 まがりくねった峠道を いっぱい荷を積みトラックが3台ゆっくりおりて行く 曲がり角で鳴らす警笛が山に木霊し また亡びがはじまる — 池井保『亡び村の子らと生きて 丹後半島へき地教育の記録』序詞 冒頭部引用
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