防災体制の整備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 02:06 UTC 版)
「福島の原子力発電所と地域社会」の記事における「防災体制の整備」の解説
福島第一原子力発電所の建設初期に安全協定を作成した際、地元町が無関心に近かったことは、福島県側からの追加提案で双葉、大熊両町にも提示するように薦められ、初代所長の今村博を通じて両町に提示したところ、「そのようなわずらわしいことには関わりたくない」旨の返答があったというエピソードにも表れている。その後、1974年に双葉郡の分署を統括する浪江消防署が東京電力に対して、施設内の火災と原子炉の事故の際の消火と災害計画を明らかにするように求めたが、1974年1月に入っても回答は無かった。また、東京電力と地元町村との災害対策に関する打合せも1974年に1回持たれたが、結果については秘密であり消防には通知されず、浪江消防署には放射線防護用の気密服も1着も装備されていなかった。 1979年3月のスリーマイル島原子力発電所事故以降、福島県は住民避難などを交えた防災訓練の必要性を認識し、1983年秋、日本で初の原子力防災訓練を実施した(スリーマイル原子力発電所事故に対する東京電力の対応にて詳述)。 社会資本の投資にやや遅れて、双葉、大熊両町の防災無線(一般広報用途を兼ねる)は1983年4月に開局している。ただし整備した防災インフラの運用には問題も指摘され、1989年12月の大熊町定例会によると、津波警報が発表された際町として沿岸住民に周知しなかった事例があり、問題視されている。 安定ヨウ素剤については、当初準備がなかった状態からTMI事故後県立大野病院にて保管することとなり、その後保管場所に再検討を加えて町役場に移動した。事前の全戸配布について町議から提案されたこともあるが、誤飲などのデメリットが指摘され、事故時に緊急医療被曝体制チームの助言を得られることを根拠に、集中保管の態度が崩れることはなかった。 2002年に発覚した東電トラブル隠し事件の影響は、毎年恒例で実施していた県原子力防災訓練にも及んだ。2002年11月の防災訓練では同年4月に稼働した県のオフサイトセンターを使用し、想定シナリオは隠ぺい、トラブル隠しを反映して「6号機で配管が破断し冷却水漏洩、格納容器から放射性物質が漏れた」という状況で開始した。また、プラントの応急処置を訓練に初めて盛り込み(注水器弁も壊れたと想定し、その修理作業訓練を組み込み)、近隣住民も参加しての避難も実施した。訓練には200機関1680人が参加し、「生々しい」との声もあったという。
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