阪急電鉄の住宅地開発
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「阪神間モダニズム」の記事における「阪急電鉄の住宅地開発」の解説
私鉄による住宅経営には、阪急電鉄も名乗りをあげた。小林一三の経営方針によって、阪急電鉄による活発な沿線住宅地の開発が行われた。住宅販売にあたっては、「郊外に居住し、日々市内に出でゝ終日の勤務に脳漿を絞り、疲労したる身体を其家庭に慰安せんとせらるゝ諸君・・・」すなわち、中堅サラリーマンを対象とした販売戦略をとっていた。 阪急電鉄が最初の住宅開発を始めたのは、明治43年(1910年)、宝塚線・池田室町の住宅地であった。33,000坪の土地を碁盤の目に区切って221区画とし、1区画120坪程度を標準とし、木造二階建てもしくは平屋建ての和風住宅(建坪約20坪)を建設した。その後、大正9年(1920年)7月16日に神戸線が開通、大阪-神戸間が約42分で結ばれることになったが、この神戸線の開通によって始まったのが、岡本住宅地(現・神戸市東灘区)の分譲であった。神戸線開通の翌年、大正10年(1921年)、阪急岡本駅周辺を含む17,557坪の土地の分譲が開始された。 阪急電鉄の住宅経営で注目されるのは、和風建築が多い点である。小林一三は、「阪神間高級住宅においてすらも、純洋式の売家には買手がない。いつも売れ残って結局貸家にする。(中略)寝台的設計よりも畳敷が愛されて、純洋式は不評である」と自叙伝のなかで述べ、一般大衆が好む和風建築を中心に住宅販売を展開した。また、阪急沿線の開発ポテンシャルをさらに高めたのは、当時、珍しかった住宅の「割賦販売方式」であったことも特筆すべきである。 これ以後、岡本に次いで、甲東園(西宮市、1923年)、稲野(伊丹市、1925年)、塚口(尼崎市、1934年)、武庫之荘(尼崎市、1937年)が次々に開発され、本格的な住宅販売事業が展開された。 三つの鉄道路線が敷かれ、交通アクセスが整備されたことは、阪神間への人口集中を促した。その背景には、隣接する商業都市・大阪の住環境悪化があった。大阪は企業が集中し、西日本の経済・産業の中心地として発展を遂げていた。それに伴い人口も次第に増加し、大阪は「東洋のマンチェスター」と称されるほどの勢いで工業都市に変貌していった。しかし、そのことは同時に、大気汚染や騒音、水質汚濁などの公害を生む要因となり、急速な産業の発展に伴う生活環境の悪化は、大阪市民の生活に脅威を与える深刻なものとなり、水都・大阪は「煙の都」とまで呼ばれるようになる。このような大阪市を中心とした生活環境の悪化を社会的背景にして、電鉄会社を中心に、阪神間の住宅地開発が本格的に展開する。
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