闇市から商業地へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/27 15:15 UTC 版)
第二次世界大戦終結直後は諏訪駅周辺の焼け跡や諏訪神社前に闇市が立ち、伊勢新聞の1945年(昭和20年)11月24日付の報道によれば、法外な値段で鼻緒のない下駄、一升鍋、アルミニウム製のバケツや杓子、フライパン、ゴム紐、万年筆などが売られていた。これに対して四日市市警察と経済調査庁は闇市などの闇取引を断固として取り締まったが、当時の市民や市の収入役は闇取引がなければ生きていけなかったと手記などに書き留めている。1950年(昭和25年)になると、復興都市計画事業が本格的に始まり、1952年(昭和27年)には現在の中央通りで講和記念全日本農機具・新日本産業大博覧会(四日市大博覧会)が開催された。焼け野原から復興した諏訪駅前から諏訪公園周辺には歓楽街が形成された 1956年(昭和31年)9月、日本国有鉄道(国鉄)四日市駅と併設されていた近畿日本鉄道四日市駅が諏訪駅と統合、現在地に「近畿日本四日市駅」(現在の近鉄四日市駅)として開業した。また三重交通は近鉄四日市駅前にバスセンターを設け、市内10路線すべてを近鉄四日市駅前発着とした。これに伴い、1年前まで野原であったところに鉄筋3階建ビルを含む商店街が形成され、会社の出張所も次々と進出した。同時期施行の売春防止法による歓楽街としての機能衰退も商店街化を推進する力となった。1965年(昭和40年)には短絡により廃線となったところに四日市一番街商店街が完成し、三重県で1番のアーケード商店街となった。一方、国鉄前の商店街の人通りは従前の3分の1となる1万人に減少、売上も3割減となり、打開策として名古屋市の丸栄百貨店の誘致が浮上した。 これに対して近鉄百貨店が1957年(昭和32年)6月に近鉄四日市駅前に進出計画を表明、地元の四日市岡田家が小売業を代々経営していた岡田屋(後のジャスコ、現在のイオン)が近鉄駅前の店舗を拡張し、百貨店として申請を提出するなど、激しい百貨店開店争いが展開された。後に丸栄は進出を取りやめ、当初近鉄百貨店と岡田屋の開店に難色を示した四日市商工会議所も譲歩し、岡田屋(後のジャスコ四日市店)が1959年(昭和34年)11月、近鉄百貨店が1960年(昭和35年)6月に開店した。 オカダヤ四日市店 近鉄百貨店四日市店
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