関西急行鉄道・近畿日本鉄道への改組
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「大阪電気軌道」の記事における「関西急行鉄道・近畿日本鉄道への改組」の解説
日付1937年4月1日*は1936年度 1943年4月1日*は1942年度 大阪電気軌道参宮急行電鉄関西急行電鉄関西急行鉄道設立1910年9月16日 1927年9月28日 1936年1月24日 1910年9月16日 代表者社長 種田虎雄 公称資本金(払込額)45,720,000円(35,560,000円) 45,770,000円(30,920,000円) 8,200,000円(3,700,000円) 139,970,000円(119,920,000円) 発行済株式総数*914,400株 915,400株 N/A 2,799,400株 総資産*96,468,166円 79,552,398円 N/A 250,664,819円 負債*44,932,339円 33,901,202円 N/A 95,332,759円 営業利益*(鉄道事業)5,785,229円(4,533,574円) 1,246,314円(1,252,106円) N/A 16,414,563円(15,924,222円) 経常利益*3,860,642円 144,861円 N/A 14,663,528円 配当金*2,912,533円 なし N/A 8,337,800円 配当率*8 % - N/A 8 % 戦時体制下にあっても国家神道的な政策が幸いして、伊勢神宮・橿原神宮・吉野神宮・熱田神宮などへの参拝旅行は「戦時の不急不要旅行の制限」の例外扱いとなり、これらを版図とする大軌グループの業績は大きく伸張した。大軌創業30年目に当たる1940年(昭和15年)の「皇紀2600年奉祝式典」では、年間参拝者数が1千万人に達した橿原神宮をはじめ、他の神宮への参拝客も捌くべく、大軌・参急とも臨時列車を多数設定するなどして輸送に努めた。 この頃、大軌グループは積極的に多くの電鉄会社を組み入れ、事業規模を拡大させていった。参急は1940年(昭和15年)1月に関西急行電鉄を、同8月には養老電鉄をそれぞれ合併。続いて1941年(昭和16年)3月には大軌と参急の合併により、関西急行鉄道(関急)に改組。更に1943年(昭和18年)に関急が大鉄を合併し、1944年(昭和19年)には南和電気鉄道(現・近鉄御所線)と信貴山急行電鉄をも合併して、路線網は500kmを超えた。 1944年(昭和19年)6月、関急は戦時統合により南海鉄道と合併、全線630km余りを擁する巨大鉄道会社・近畿日本鉄道(近鉄)が成立する。 だが、旧大軌・関急と旧南海との間には資本上も沿革上も人脈上も元々接点がなく、国策による強制的な合併ということもあり、初めから無理が生じていた。そこで戦後の1947年(昭和22年)6月、旧南海の傍系会社で近鉄と合併しなかった高野山電気鉄道が南海電気鉄道(南海電鉄)と改称の上、近鉄より旧南海鉄道路線を譲受し、旧南海との合同を解消。この結果、旧関急系の路線のみが近鉄として存続し、現在に至っている。
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