開発とその経緯
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設計が行われたのは1880年代のことで、1864年の第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争において、特に激戦として知られるドゥッブル堡塁の戦いに際して、数に勝る敵軍に対しては、防衛側が有利とされる陣地防御戦闘であっても、火力、特に歩兵部隊の個人火力に劣っていては劣勢を免れない、という経験と戦訓をデンマーク軍が得たことに起因している。これに対処するためには大砲(砲兵部隊)の増勢だけではなく歩兵部隊の火力を増大させることが必要で、兵士が用いる小銃を連射できるものとする必要がある、という結論が出され、「自動連発が可能な小銃」もしくは「小銃より多少大きく重い程度の連射火器」の開発が急務である、とされた。 上述の結論に基づいてデンマークにおいて開発されたものに、"Forsøgsrekylgevær"(「自己装弾小銃」の意)”として開発された半自動式の小銃があった。これは1883年、デンマーク軍の砲兵将校であったヴィルヘルム・H・O・マドセン(Willhelm H. O. Madsen)大尉によって発案され、国営兵器工廠廠の技官であるユリアス・A・ラスムッセン(Julius A. Rasmussen)によって設計された。この“自己装弾小銃”は1886年に試作品が完成、1887年にはデンマーク軍より試験用に70丁が発注され、1888年には"M.1888 Forsøgsrekylgevær"として制式採用された。このM.1888が、半自動式ながら世界最初の自動小銃であり、世界最初の制式自動小銃である。 1889年、彼らの所得した特許は投資家によって買い取られ、この画期的な武器を製造するための共同事業体(企業合同)としてDRS(Dansk Rekyl Riffel Syndikat A/S, 後にはDansk Industri Syndikat A/Sに改名)が創設された。W・マドセン自身は軍務のために事業からは離れざるをえなかったが、その傘下の開発製造部門として1900年に設立された会社には出資し、マドセン社(Compagnie Madsen A/S, 後にDRSがA.P. モラー・マースクの傘下に入った際に統合された)を設立した。 1892年、デンマーク陸軍は「要塞防衛用兵器」としてM.1888の10発装弾板式の装弾数を20発弾倉式とした改良型を発注したが、200丁の発注に対して86丁が納入されたのみである。 1896年、M.1888に注目したデンマーク海軍は、DRSに対し、海兵隊用のカービン銃としてM.1888を軽量小型に改修し、10発装弾の弾倉式とした新型小銃を求めた。この要求に対し、1899年にDRSの責任者となったテオドル・ショービュー(Theodor Schoubue)中尉は、1888年式自己装弾ライフルに独自の改良を加えて幾つかの特許を取得し、ショービューにより改良されたM.1888は"M.1896 Forsøgsrekylgevær"として採用された。M.1896は1896年に60丁+がデンマーク海兵隊に納入され、翌1897年には海軍要塞の防衛兵器として50丁が追加発注されて納入されている。 M.1888、M.1896共にその火力の高さは高評価であったものの、実際に使用した陸軍および海兵隊からは、装弾数の物足りなさや、連続射撃時の耐久性の低さといった点が指摘され、ショービューはM.1896を元に、小銃ではなく機関銃として発展させた設計とし、1901年には新たな特許を所得した。同年、デンマーク軍事担当大臣に就任したW・H・O・マドセンはこれを採用するよう働きかけ、ショービューの設計した機関銃は1902年にはデンマーク陸軍に採用された。マドセンはデンマーク以外の各国にも積極的に採用を働きかけ、この軽機関銃は製造会社名、更には各国に採用を働きかけるために積極的にセールスを行ったマドセンにちなんで“マドセン機関銃”(デンマーク語: Madsen-maskingeværet, 英語: Madsen MachineGun)と名付けられた。
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