長崎貿易改革
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「松浦信正 (河内守)」の記事における「長崎貿易改革」の解説
江戸時代、長崎は長崎会所と長崎町年寄・地下役人による二重行政が敷かれ、長崎会所が管轄すべき長崎貿易についても町年寄等が実務に関わっていたため、貿易利益が町年寄等に流れ、輸出用銅の不足・唐船の滞留等の問題が生じていた。 寛延元年(1748年)7月老中から書状を受け、町年寄等の貿易権益吸収、人員削減による経費節減を指示されると、現地役人から改革協力者を集めて商売方会所(用行組)を組織し、長崎会所目付役村山庄右(左)衛門を商売方会所取締に登用、会所吟味役見習森弥次郎に長崎会所の実務、元出島乙名島谷又次郎に地下役人の監視、入札商人伯井長兵衛に唐人貿易の交渉を担当させ、寛延3年(1750年)江戸から下向した勘定組頭早川庄次郎が指示に当たった。 寛延2年(1749年)過去3ヶ年分の勘定書を提出させた後、これまで商品別に作成していた勘定書を年度別・奉行在勤別に作成させ、取引全体の収支を把握するようにした。寛延3年(1750年)10月6日諸役人増減書附・諸役人筆者小役増減書附を提出させ、海舶互市新例以後新設された町年寄末席等の役職を廃止した。 寛延3年(1750年)11月地下役人に12か条の申渡書を提示し、年番町年寄を会所上席に据えて会所出勤を義務付け、地下役人が行っていた勘定・記帳等の貿易事務を会所の管轄とした。宝暦元年(1751年)地役人へ貿易利益が流出していた人参座を廃止、年番町年寄が本興善町糸蔵で行っていた江戸向け調進薬種の管理、宿町・唐通事が行っていた唐船積渡帳・唐船買渡帳の作成も会所が行うこととし、長崎貿易の権限を会所に集約させた。 宝暦元年(1751年)閏6月出島乙名組頭筆者小役取前帳・出島通詞並筆者小役分限帳を作成させ、地下役人の俸給を減額した。 銅の不足問題については、寛延3年(1750年)大坂銀座からの仕入ルートを廃止し、宝暦元年(1751年)大坂に会所役人を派遣して長崎御用銅会所を設置して諸国銅山割当法を復活させ、町奉行時代の人脈を活かして各地の銅山から直接銅を買い付けた。 これらの緊縮財政の下、長崎会所は幕府からの拝借金21万両余を寛延元年(1748年)以降毎年1万5千両ずつ返済し、宝暦11年(1761年)完済した。
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