長崎貿易改革とは? わかりやすく解説

長崎貿易改革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 03:04 UTC 版)

松浦信正 (河内守)」の記事における「長崎貿易改革」の解説

江戸時代長崎長崎会所長崎町年寄地下役人による二重行政敷かれ長崎会所管轄すべき長崎貿易についても町年寄等が実務に関わっていたため、貿易利益が町年寄等に流れ輸出用の不足・唐船滞留等の問題生じていた。 寛延元年1748年7月老中から書状を受け、町年寄等の貿易権益吸収人員削減による経費節減指示されると、現地役人から改革協力者集めて商売方会所(用行組)を組織し長崎会所目付役村山庄右(左)衛門商売方会取締登用会所吟味役見習森弥次郎長崎会所実務、元出島乙名島谷又次郎地下役人監視入札商人伯井長兵衛唐人貿易交渉担当させ、寛延3年1750年江戸から下向した勘定組頭早川次郎指示当たった寛延2年1749年過去3ヶ年分の勘定書提出させた後、これまで商品別に作成していた勘定書年度別奉行在勤別に作成させ、取引全体収支把握するようにした。寛延3年1750年10月6日諸役人増減書附・諸役人筆者小役増減書附を提出させ、海舶互市新例以後新設され町年寄末席等の役職廃止した寛延3年1750年11月地下役人12か条の申渡書を提示し年番町年寄会所上席据えて会所出勤義務付け地下役人が行っていた勘定記帳等の貿易事務会所管轄とした。宝暦元年1751年地役人貿易利益流出していた人参座廃止年番町年寄が本興善町行っていた江戸向け調進薬種管理宿町唐通事が行っていた唐船積渡帳・唐船買渡帳の作成会所が行こととし長崎貿易権限会所集約させた。 宝暦元年1751年)閏6月出島乙名組頭筆者小役取前帳・出島通詞筆者小役分限帳作成させ、地下役人俸給減額した。 の不足問題については、寛延3年1750年大坂銀座からの仕入ルート廃止し宝暦元年1751年大坂会所役人派遣して長崎御用銅会所設置して諸国銅山割当法を復活させ、町奉行時代人脈活かして各地銅山から直接買い付けた。 これらの緊縮財政の下、長崎会所幕府からの拝借金21万両余を寛延元年1748年以降毎年1万5千両ずつ返済し宝暦11年1761年完済した

※この「長崎貿易改革」の解説は、「松浦信正 (河内守)」の解説の一部です。
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