長崎貿易の統制弱体化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:38 UTC 版)
「唐物抜荷事件」の記事における「長崎貿易の統制弱体化」の解説
長崎でも抜荷の横行を助長する事態が起きていた。文政年間以降、長崎に貿易業務のために訪れる船舶の乗組員たちが私的に荷物を長崎に持ち込み、唐物を密売する「水夫手廻り」が増加し、また船主たちも密売に加担するなど、密売すなわち抜荷が公的な貿易を圧迫するようになっていた。文化年間以降、長崎の公貿易である長崎会所の貿易は著しい不調に陥っており、貿易への依存度が高い長崎町内は密売に頼らざるを得ない状況が生じていた。 実際文政期以降、本来厳しく規制されていた個人的な商品の持ち込みと密売は公然化し、長崎の役人たちのみでは取り締まりが困難となった。取り締まりに抵抗して騒動となった中国人たちを抑えるために、長崎町内の警備担当であった大村藩兵や長崎港口警備の福岡藩兵の救援を仰がなければならない事態が発生した。しかも大村藩、福岡藩の藩兵の力を借りて事態を鎮静化させた後、貿易への悪影響を懸念して問題を起こした中国人たちに処罰を加えることも出来なかった。
※この「長崎貿易の統制弱体化」の解説は、「唐物抜荷事件」の解説の一部です。
「長崎貿易の統制弱体化」を含む「唐物抜荷事件」の記事については、「唐物抜荷事件」の概要を参照ください。
- 長崎貿易の統制弱体化のページへのリンク