鉄道と人種差別
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:29 UTC 版)
「アメリカ合衆国の鉄道史」の記事における「鉄道と人種差別」の解説
南北戦争以前の鉄道では、特に南部において黒人差別は厳しく徹底されており、奴隷の逃亡を防ぐために奴隷所有者の許可証がなければ鉄道会社は黒人に対して乗車券を売らなかった。乗車する車両は白人と区別されて専用の粗末な「ニグロ・カー」を割り当てられ、もっぱら奴隷商人が「商品」を運搬する目的でのみ黒人は鉄道を利用していた。たとえ奴隷所有者の許可証があったとしても黒人だけでの長距離移動はほとんど不可能であり、特に北部への逃亡を防ぐためにボルチモアとフィラデルフィアの間の鉄道は厳しい統制下に置かれていた。逃亡奴隷を捜索・捕捉して懸賞金を得る奴隷誘拐者も跋扈していた。北部では少なくとも1830年代には法律上は奴隷制が廃止され、南部のように組織的・制度的に統一された黒人差別が行われているわけではなかったが、やはり慣習的に乗車する車両は区別されていた。 南北戦争後、黒人の境遇を改善する諸改革が実行されていったが、一方で差別を維持しようとする法律も南部諸州で依然として維持・制定されていた。これは連邦軍の占領下では無力なものとなり、1880年代頃までは黒人は乗車券を買えば一等車に乗ることもできる状況が広く見られた。もっとも、この当時の黒人の経済力では、一等車の乗車券を買えるのはほんの一握りであった。一方北部でもこの時期は黒人差別がいくらか緩和され、黒人が専門的な職に就いたり、列車内で白人と黒人が同席したりすることは珍しいことではなくなった。 しかし1880年代頃からは黒人差別が南部北部ともに再開・強化されるようになり、白人と使用施設を区別することを求めるジム・クロウ法が南部諸州によって制定されるようになり、鉄道においても再び白人専用車両と黒人専用車両が分けられるようになっていった。1892年に白人専用車両に乗車した黒人男性が訴えられた件は合衆国最高裁判所まで上告され、「分離すれど平等」として処罰を認める判決が下され(プレッシー対ファーガソン裁判)、こうした差別的な扱いが撤廃されるのは1960年代を待つことになった。 黒人差別は鉄道の旅客に対してのみではなく、従業員に対しても行われた。黒人は機関助士(火夫)や制動手のような厳しい労働が要求される分野で多く働いていたが、この当時の機関士は機関助士から昇格するものであったため、少なからず黒人機関士も見受けられていた。鉄道の労働問題に際して、白人の労働組合は黒人職員を受け入れるかどうかについては一貫性が無かった。1893年に結成されたアメリカ初の産業労働組合であるデブスによるアメリカ鉄道組合も、1894年の大会でアフリカ系労働者を締め出す条項を可決した。1880年代頃からの黒人差別の再開強化に伴い、職を巡って競合して賃金を切り下げる要因になるとみなされた黒人労働者は次第に白人の迫害もあって鉄道の現場から追放されていき、やがて黒人の機関士はまったく見られなくなっていった。鉄道労働における数少ない黒人の活躍の場は、先述したようなプルマンのポーターとしてであった。
※この「鉄道と人種差別」の解説は、「アメリカ合衆国の鉄道史」の解説の一部です。
「鉄道と人種差別」を含む「アメリカ合衆国の鉄道史」の記事については、「アメリカ合衆国の鉄道史」の概要を参照ください。
- 鉄道と人種差別のページへのリンク