鈴鹿山の立烏帽子とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 鈴鹿山の立烏帽子の意味・解説 

鈴鹿山の立烏帽子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 19:21 UTC 版)

鈴鹿御前」の記事における「鈴鹿山の立烏帽子」の解説

三重県亀山市滋賀県甲賀市の境に位置する鈴鹿峠東海道鈴鹿関置かれ東山道不破関北陸道愛発関とともに三関呼ばれた鈴鹿峠畿内伊勢東国を結ぶ重要な役割果たしたことで、往来する旅人物資目当てとした盗賊跳梁跋扈したことが記録説話記されている。特に伊勢国水銀産地として有名で、『今昔物語集』では水銀商人80余人盗賊襲われたが、日頃から恩を施していた飛んできて盗賊刺したおかげで難を逃れたなどと記されている。藤原千方の四鬼説話なども伝わっているように、鈴鹿山鬼の棲家として知られていた。 鈴鹿山の立烏帽子に関する最古の記録平安時代末期治承3年1179年)頃に平康頼記した仏教説話集『宝物集』で、「コノニモ ナラサカノカナツフテ、スゝカ山ノ タチエホウシ ナト申物侍ケリ、ヒタカノ禅師海之羊ミナト申ケルヌスヒトヽモ、イツレカツヒニヨクテ侍ル、手キラレクヒキラレ、ヒトヤニヰテカナシキメヲノミコソハミナミル事ニテメレ、」とある。ここでは奈良坂かなつぶて同じく鈴鹿山の立烏帽子という盗賊処刑されたことを記している。 この立烏帽子について、鎌倉時代初期承久の乱1221年前後成立したとみられる『保元物語』では、伊賀国住人山田小三郎是行が、祖父行秀立烏帽子捕縛し天皇献上した名乗りをあげている。 御成敗式目追加法では、延応元年7月26日ユリウス暦1239年8月26日)付で鈴鹿山大江山盗賊について、近辺地頭責任者として鎮圧させるよう伝達されている。 建長6年1254年成立の『古今著聞集』には、強盗捕らえた検非違使別当藤原隆房278歳見目麗しい女官強盗正体であったことに驚き「昔こそ鈴香山の女盗人とて言ひ伝へたるに」と、かつて鈴鹿山にも女盗賊がいたことを回想する記述見られる。隆房が検非違使別当であった時期1183年から1191年であり、この『古今著聞集』とあまり時期離れない宝物集』や『保元物語』盗賊立烏帽子と『古今著聞集』の鈴鹿山女盗賊次第同一人物とされたことで、女盗賊としての立烏帽子へと繋がっていく。 『弘長元年十二月九日公卿勅使記』では、鈴鹿山のうち凶徒の立つところとして西山口加治□坂を挙げて「昔立烏帽子在所辺也。件立烏帽子崇神社者、鈴鹿姫坐。路頭北辺也」と注している。ここでは盗賊の名前が立烏帽子であり、鈴鹿姫はその盗賊崇敬した社の女神として現れる同時代記された『古今著聞集』と違い、『弘長元年公卿勅使記』には立烏帽子女性とした描写残っていない。 延文から応安頃に成立した異制庭訓往来』では、本朝強盗張本として藤原保昌舎弟である藤原保輔とともに鈴鹿山の立烏帽子が記されている。

※この「鈴鹿山の立烏帽子」の解説は、「鈴鹿御前」の解説の一部です。
「鈴鹿山の立烏帽子」を含む「鈴鹿御前」の記事については、「鈴鹿御前」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「鈴鹿山の立烏帽子」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「鈴鹿山の立烏帽子」の関連用語

鈴鹿山の立烏帽子のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



鈴鹿山の立烏帽子のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの鈴鹿御前 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS