鈴鹿山の立烏帽子
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三重県亀山市と滋賀県甲賀市の境に位置する鈴鹿峠に東海道の鈴鹿関が置かれ、東山道の不破関・北陸道の愛発関とともに三関と呼ばれた。鈴鹿峠は畿内と伊勢や東国を結ぶ重要な役割を果たしたことで、往来する旅人や物資を目当てとした盗賊が跳梁跋扈したことが記録や説話に記されている。特に伊勢国は水銀の産地として有名で、『今昔物語集』では水銀商人80余人が盗賊に襲われたが、日頃から恩を施していた蜂が飛んできて盗賊を刺したおかげで難を逃れたなどと記されている。藤原千方の四鬼の説話なども伝わっているように、鈴鹿山は鬼の棲家として知られていた。 鈴鹿山の立烏帽子に関する最古の記録は平安時代末期の治承3年(1179年)頃に平康頼が記した仏教説話集『宝物集』で、「コノ世ニモ ナラサカノカナツフテ、スゝカ山ノ タチエホウシ ナト申物侍ケリ、ヒタカノ禅師海之羊ミナト申ケルヌスヒトヽモ、イツレカツヒニヨクテ侍ル、手キラレクヒキラレ、ヒトヤニヰテカナシキメヲノミコソハミナミル事ニテ侍メレ、」とある。ここでは奈良坂のかなつぶてと同じく鈴鹿山の立烏帽子という盗賊が処刑されたことを記している。 この立烏帽子について、鎌倉時代初期の承久の乱(1221年)前後に成立したとみられる『保元物語』では、伊賀国住人山田小三郎是行が、祖父・行秀が立烏帽子を捕縛して天皇に献上したと名乗りをあげている。 御成敗式目追加法では、延応元年7月26日(ユリウス暦1239年8月26日)付で鈴鹿山と大江山の盗賊について、近辺の地頭が責任者として鎮圧させるよう伝達されている。 建長6年(1254年)成立の『古今著聞集』には、強盗を捕らえた検非違使別当藤原隆房が27、8歳の見目麗しい女官が強盗の正体であったことに驚き「昔こそ鈴香山の女盗人とて言ひ伝へたるに」と、かつて鈴鹿山にも女盗賊がいたことを回想する記述が見られる。隆房が検非違使別当であった時期は1183年から1191年であり、この『古今著聞集』とあまり時期の離れない『宝物集』や『保元物語』の盗賊立烏帽子と『古今著聞集』の鈴鹿山の女盗賊が次第に同一人物とされたことで、女盗賊としての立烏帽子へと繋がっていく。 『弘長元年十二月九日公卿勅使記』では、鈴鹿山のうち凶徒の立つところとして西山口の加治□坂を挙げて「昔立烏帽子在所辺也。件立烏帽子崇神社者、鈴鹿姫坐。路頭之北辺也」と注している。ここでは盗賊の名前が立烏帽子であり、鈴鹿姫はその盗賊が崇敬した社の女神として現れる。同時代に記された『古今著聞集』と違い、『弘長元年公卿勅使記』には立烏帽子を女性とした描写は残っていない。 延文から応安頃に成立した『異制庭訓往来』では、本朝の強盗の張本として藤原保昌の舎弟である藤原保輔とともに鈴鹿山の立烏帽子が記されている。
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