金毘羅寺
金毘羅寺
金毘羅寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 10:36 UTC 版)
当時、現在の洞爺湖温泉街に当たる有珠山北麓、洞爺湖南岸はアイヌ語で「廃村」を意味するトコタンと呼ばれる辺鄙な寒村だった。そんな折、トコタンに秋山宥猛(俗名:秋山甚平)という僧が現れる。 1873年(明治6年)に徳島県に生まれた秋山(宥猛を名乗るのは、大正3年以降)は若き日に神陰流剣術や玉心流柔術など各種の武道を極め、日清戦争直後の征台の役にも従軍した。 兵役を終えた彼は北海道に渡り、仁木町で開墾に従事したり、虻田町で蓄音機を有料で視聴させるなどして生計を立てていたが、一旦内地に戻り、讃岐の金刀比羅宮で出家する。元来、金刀比羅宮は神仏習合の金毘羅大権現として、別当寺の松尾寺金光院を有していたが、明治初期の廃仏毀釈や神仏分離令の影響で歴代の仏像、仏具の大半を破却に追い込まれていた。秋山の修行時代は、まさに松尾寺が存亡の危機を迎えていた時期に当たる。 同じころ、洞爺湖南西岸・月浦集落に農業や運送業を営む有力者・篠原又兵衛がいた。香川県生まれの篠原は幼いころより信仰心篤く、明治30年頃に故郷より金刀比羅宮の分霊をいただき、自宅の裏山に祀っていた。 1908年(明治41年)、松尾寺での修行を終えた秋山は北海道に再度渡っていたが、洞爺湖周辺の風光明媚な光景に引かれ、この地に金毘羅宮建立の夢を思い描く。秋山は「本山から、松尾寺再興の夢を託された」との触れ込みで篠原に接近し、協議を重ねた末の同年10月、金毘羅寺の仮本堂を竣工させる。もとより洞爺湖周辺の開拓民は四国出身者が多かったため、「ふるさとの神様」を迎えた地元住民は狂喜し、上棟式には虻田、壮瞥、留寿都などから千数百人の善男善女が詰めかけたという。虻田町でも10万坪の土地を売却して事業に援助。官民一体での金毘羅寺整備につられ、周辺には小規模ながら門前町が整い始めた。そして明治43年3月、壮麗な本堂が竣工した。 まさに噴火の4か月まえのことである。有珠山明治活動で最初の噴火を起こす本堂の裏山は、「金毘羅山」と称されていた。
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金毘羅寺
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その年の3月に建立された金毘羅寺本堂は、大量の噴石を浴びて大破した。 数年来経営に辛苦せる金毘羅寺は噴火降石の為めに本堂粉砕幾分の繁の気味なり(中略)金毘羅市街予定地も全く人を見ず、一帯降灰堆積せるもの数寸、今や夏既に半にして鬱蒼の草木降灰降石の為折復枯損満目また荒寥たりき。 僧・秋山は洞爺湖畔での霊場建設を諦め、1913年(大正2年)、倶知安に移転して新たな寺院を建立した。それが、今に続く倶知安町の金毘羅寺である。 郵便広告を利用して北海道全域に数万枚のチラシを配布し、派手な衣装で近隣の村落を練り歩き、さらに寺に隣接して武術道場を開設するなどして各方面に働きかけた結果、大正から昭和にかけて道内屈指の寺院として栄えた。祭りの3日間だけで10万人の参拝者が集った記録もあるという。 1927年(昭和2年)、55歳の秋山宥猛は寺を養子に譲り、小樽市の大本院に移った。
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