金毘羅寺
金毘羅寺
金毘羅寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/16 14:38 UTC 版)
金毘羅寺 | |
---|---|
![]() 本堂 |
|
所在地 | 愛媛県東温市河之内4874 |
位置 | 北緯33度47分4.686秒 東経132度57分39.225秒 / 北緯33.78463500度 東経132.96089583度座標: 北緯33度47分4.686秒 東経132度57分39.225秒 / 北緯33.78463500度 東経132.96089583度 |
山号 | 松尾山 |
院号 | 宝持院 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
本尊 | 金毘羅大権現 |
創建年 | 長寛年間(1163年-1165年) |
札所等 | 伊予十三佛霊場 結願の寺 |
金毘羅寺(こんぴらじ)は、愛媛県東温市にある真言宗豊山派の寺院。松尾山、宝持院と号す。本尊は金毘羅大権現。伊予十三佛霊場の結願の寺[1]。
概要
長寛年間(1163年-1165年)創建の称明寺という観音信仰の寺であったが、慶長6年(1601年)加藤嘉明により金毘羅大権現を勧請し松尾山金毘羅寺と改めた。霊験あらたかで、松山城主加藤・久松両公の祈願所であり近郷の人々の信仰を集めた。最上段に金毘羅大権現の本堂があり、その前の両脇に二本ずつ嘉明手植えの高さ39mの杉(市の天然記念物)が聳える。その下の段には、観音堂と大師堂、対面に愛染堂、さらに下の段に仁王門がある。
前後の札所
- 伊予十三仏霊場
- 13 成願寺 - 結願 金毘羅寺
脚注
金毘羅寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 10:36 UTC 版)
当時、現在の洞爺湖温泉街に当たる有珠山北麓、洞爺湖南岸はアイヌ語で「廃村」を意味するトコタンと呼ばれる辺鄙な寒村だった。そんな折、トコタンに秋山宥猛(俗名:秋山甚平)という僧が現れる。 1873年(明治6年)に徳島県に生まれた秋山(宥猛を名乗るのは、大正3年以降)は若き日に神陰流剣術や玉心流柔術など各種の武道を極め、日清戦争直後の征台の役にも従軍した。 兵役を終えた彼は北海道に渡り、仁木町で開墾に従事したり、虻田町で蓄音機を有料で視聴させるなどして生計を立てていたが、一旦内地に戻り、讃岐の金刀比羅宮で出家する。元来、金刀比羅宮は神仏習合の金毘羅大権現として、別当寺の松尾寺金光院を有していたが、明治初期の廃仏毀釈や神仏分離令の影響で歴代の仏像、仏具の大半を破却に追い込まれていた。秋山の修行時代は、まさに松尾寺が存亡の危機を迎えていた時期に当たる。 同じころ、洞爺湖南西岸・月浦集落に農業や運送業を営む有力者・篠原又兵衛がいた。香川県生まれの篠原は幼いころより信仰心篤く、明治30年頃に故郷より金刀比羅宮の分霊をいただき、自宅の裏山に祀っていた。 1908年(明治41年)、松尾寺での修行を終えた秋山は北海道に再度渡っていたが、洞爺湖周辺の風光明媚な光景に引かれ、この地に金毘羅宮建立の夢を思い描く。秋山は「本山から、松尾寺再興の夢を託された」との触れ込みで篠原に接近し、協議を重ねた末の同年10月、金毘羅寺の仮本堂を竣工させる。もとより洞爺湖周辺の開拓民は四国出身者が多かったため、「ふるさとの神様」を迎えた地元住民は狂喜し、上棟式には虻田、壮瞥、留寿都などから千数百人の善男善女が詰めかけたという。虻田町でも10万坪の土地を売却して事業に援助。官民一体での金毘羅寺整備につられ、周辺には小規模ながら門前町が整い始めた。そして明治43年3月、壮麗な本堂が竣工した。 まさに噴火の4か月まえのことである。有珠山明治活動で最初の噴火を起こす本堂の裏山は、「金毘羅山」と称されていた。
※この「金毘羅寺」の解説は、「四十三山」の解説の一部です。
「金毘羅寺」を含む「四十三山」の記事については、「四十三山」の概要を参照ください。
- 金毘羅寺のページへのリンク