運用構想の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/12 09:41 UTC 版)
ホニⅠは開発初期に「砲戦車」と呼称されており(砲戦車と自走式野砲の双方をにらみつつの開発だったと思われ、実際に二式砲戦車の前身である試製一式砲戦車ホイ(以下ホイ車)との比較が行われている。これは1940年(昭和15年)頃より、戦車及び砲戦車の搭載砲には対戦車戦闘にも向いた野砲級にするべきであるという意見が出始めており、山砲を改造した低初速砲の搭載するホイ車には否定的な見解を示していたためである。 1941年(昭和16年)当時、野砲級の火砲を搭載した車両はホニⅠ車だけであり、戦車学校は野砲兵の装備として開発が進められていたこの車両をホイ車に代わる「試製一式砲戦車」としての適性を見出し、本格的な砲戦車が登場するまでの代用砲戦車として注目するようになる。その際に戦車学校側は、直接照準器を搭載し密閉式の戦闘室に改めるなどの改造案を要望した。 (ただし、砲戦車としてのホニの採用は見送られており、当然この改良案も採用されなかったが、後に三式砲戦車で一部が実現している。) その後、ホニⅠ車は野戦砲兵学校による突撃砲構想を経て、昭和17年から機甲師団用の機動砲兵として配備が進められることとなる。さらに昭和19年頃になると野砲を搭載したホニⅠ車から15㎝榴弾砲を搭載した四式十五糎自走砲 ホロに至るまでの自走砲は対戦車戦闘が第一任務となった。その中でホニⅠ車の運用法は、その性能所元を鑑みれば陸軍戦車学校が想定した砲戦車の運用法に似ており、このためホニⅠ車が配備された戦車連隊ではホニⅠ車を「砲戦車」同じく連隊に配備された一式十糎自走砲を「自走砲」と呼び分けた例も存在する。しかし、自走砲部隊への人員供給は野戦砲兵学校が中心に行っていたため、砲兵側からすればホニⅠ車は紛れもない自走砲(砲兵管轄)であり、ホニⅠ車の扱いと立場は最後まで曖昧だった。 (また、1943年(昭和18年)の春ごろにも、千葉戦車学校にてT-34やM4に対する応急処置として戦車連隊砲戦車中隊に当初の予定だった二式砲戦車に代わり、ホニⅠを配備する目的で、対戦車射撃とその戦闘法が研究されていたともいわれ、研究部主事山下少佐の元、曾根正義大尉(陸士五十三期)がこれを担当したが、1944年(昭和19年)になっても戦車連隊(砲戦車中隊)への装備は実現しなかったという。)
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