連盟創設に関する諸説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 13:53 UTC 版)
「東都大学野球連盟」の記事における「連盟創設に関する諸説」の解説
東都大学野球連盟発足の経緯は、参考となる一次資料に乏しいため、いろいろな異説がまことしやかに流れているのが現状となっている。以下の内容はこうした状況を踏まえた上で、比較的信用できる文献の中に記述されている説をあくまで各論として列挙・紹介する。 日本大学や國學院大學、専修大学は東京六大学野球連盟へ加盟申請を度々行っていたが拒否され続けたため、やむなく他の大学を誘い東都大学野球連盟(当時は五大学野球連盟)を設立した。 (補足):1929年に日本大学と國學院大學は六大学各校と試験的に1試合ずつ対戦したが実力不足と判断され(日大は東大にも3-5で敗れた)、今後の隆盛を待って加盟を歓迎するとしながらも正式加盟は実現しなかった。 東都の母体である新五大学野球連盟が創設される以前、東京帝国大学と民法法典論争をしていた中央大学は[要検証 – ノート]東京六大学野球連盟への加盟要請を拒否[要出典]、同じく拒絶した日本大学・専修大学とともに東京六大学野球連盟に対抗する野球連盟を作ることを発起した。これに東京帝国大学と農学分野で論を競っていた東京農業大学が参加、日本大学と関係が深かった國學院大學も参加することになり、五大学野球連盟が結成された。さらにしばらくして、官立商科大学として東京大学とライバル的な関係にあった東京商科大学も合流した。 (補足):中央大学が当時法典論争が元で東京帝国大学とあらゆる分野で同席することを断固拒絶する学内風潮が強く、そのため現在の東京六大学からの加盟打診を検討する段階で自ら拒否したことが@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}幾つかの文献[要出典]の記述に残っている。また、東京商科大学が東京帝国大学への吸収合併騒動の影響によって当時、東京大学との関係が悪化していたことが伺える。さらに東京農業大学も農学に対する考え方をめぐって東京帝国大学と対立状態にあった。 当時(現東京六大学野球連盟加盟の最終六校が確定する1925年より前)の関東の大学野球で東京六大学各校に準じる実力を持っていた大学は、日本大学と國學院大學の2校であったという説と[要出典]、そうではなく、中央大学・専修大学・日本大学・東洋大学・上智大学などであり[要出典]、國學院大學や東京商科大学はそれほどではなかった。 (補足):これらは関係者間での伝承やそれを元にした語り草程度の逸話でしかないため、信憑性の是非は今となっては問うのは難しいが、一般的にもうわさの類にありがちな、伝承者の自己顕示・自己満足的な意思が多分に含まれている可能性が高い。 当時の早稲田大学野球部は、どちらかといえば大学野球連盟(現在の東京六大学野球連を指す)の拡大に対して他校に比べると積極的・発展的な考えを持っていたが[要出典]、既存の他加盟校の反対(とりわけ明治大学や東大が反対したといわれている)[要出典]によって日本大学や國學院大學などをはじめとした他大学の新規加盟に至らなかったことを残念に思い、後日の新連盟(新五大学野球連盟)設立には積極的な支援をした。ちなみに、新五大学野球連盟の発足式は早大戸塚球場で実施をされているが、これもその早稲田大学側の意思の表れの一例とされている。 (補足):後年に出版された『六大学野球』(佐藤文明著、現代書館)の中では、東大加盟に至るまでとその後の加盟校の選定・決定には、当時の早大野球部監督の飛田忠順の意思が最終的には大きく影響していたため、早稲田も他校(現在の六大学野球連盟加盟校以外の大学)の加盟には終始一貫して反対の立場であったという上記説とは対極になる記述がなされている。また、同書にはさらに「六大学成立には必然性があって最初から集まるべくして集まった6校であった。」という旨の記述がされている。 五大学連盟成立後も六大学との連携あるいは合併を模索する動きは続き、1936年には六大学連盟に対して 六大学側前シーズンの最下位チームと五大学側優勝チームの対戦 五大学連盟の六大学連盟加盟 を要望した。しかし、六大学側は「試合数が増すので学業にも妨げとなり、文部省としても許可しないだらう」と回答し、六大学連盟への加盟を拒絶した。
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