連盟分裂・タイガースの二心
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 02:37 UTC 版)
「プロ野球再編問題 (1949年)」の記事における「連盟分裂・タイガースの二心」の解説
9月29日、新球団の加盟問題について連盟の最高顧問会議が開催され、次いで30日からは代表者会議が開かれた。ここで巨人ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・大陽は新規加盟に反対の立場を示したのに対し、阪神・阪急ブレーブス(現在のオリックス・バファローズ、以下阪急)・南海・東急フライヤーズ(現在の北海道日本ハムファイターズ、以下東急)・大映スターズ(大映ユニオンズを経て現在の千葉ロッテマリーンズの前身の一つ 以下大映)は新規加盟に賛成をした。1946年に日本野球連盟で「これ以上球団は増やさない」という声明を発表していたが、賛成する5球団は既に状況が違うと主張した。 この段階で賛成5球団をまとめ、多数決で強行突破しようとした正力は「2球団の参加を認め、1リーグ10球団を目指す」という盟約書をまとめ、この盟約書には阪神電気鉄道社長・野田誠三が署名している。しかし、参加希望が相次いだためにそこから2球団(実質的には毎日以外の1)を選びこむのは難しく、両者の対立もエスカレートしていった結果、正力の1リーグ10球団という構想は難しいことが明らかになっていく。そこで、加盟賛成派の5球団は、「2リーグへ分裂しても賛成5球団は分かれず、毎日と同じリーグへ一緒に参加する」との新たな協定を結ぶ。この協定にも野田が署名、捺印している。 この年、1949年11月12日より、第二次世界大戦後で初めて、アメリカ合衆国よりAAA野球チームであるサンフランシスコ・シールズが招かれることが決まっており、客を迎えるのに内部分裂しているのは失礼に当たるとして加盟問題を保留として一旦解散となった。 親善試合終了後、11月22日に開かれた代表者会議の途中で阪神はその動向を突如変える。阪神の予想通り2リーグへと分裂することになったが、ここで阪神は毎日のリーグに移らず巨人のリーグへ残ることを阪神球団代表・富樫興一が通告した。 この阪神の方針転換には諸説あり、阪神はその球団史『阪神タイガース 昭和のあゆみ』の中で「二リーグ制に現実的に対処」と題し、1リーグ10球団に賛成した阪神ではあるが、10球団制が失敗に終わった後まで、行動をともにした約束はしていないと記し、2リーグ分裂後についての誓約書の存在そのものを伏せている。また球団史では言及が避けられているが、誓約書の存在を前提とした弁明も有り、そこでは阪神電鉄社長の野田が誓約し署名捺印した事実はある、しかしそれは親会社側が勝手にやったことであり、阪神球団はその約束に縛られるものではないとしている。親会社は事前にそのような約束をしていたかもしれないが、球団としては2リーグ分裂後の対処に関して事前の取り決めがあったつもりはなく、2リーグが分裂すると決まってから改めて行動を検討し、富樫と巨人球団代表・四方田義茂とで提携の話を進めた結果巨人と同じリーグに残ることとなったとしている。 球団が親会社の意向を無視したという形になる上記の弁明は、球団側や親会社の阪神電鉄側にも疑問を持たれたが、後年大井廣介が富樫に尋ねたところ「あの時は阪神が中途で寝返りを打ったように見えるが、実ははじめから、親会社の重役会議で一、毎日を入れる、二、巨人とは離れないという線を決定していた。したがって巨人の怨みを買っても毎日を入れようとし、毎日の怒りを買っても巨人側を選んだ。世間から見れば二股膏薬のようにみえグラついて不見識のようだが、毎日を入れる、巨人と離れないというのが、最初からの最高方針だったのだ」と説明したことを著書で明らかにしている。 他にも『プロ野球40年史』では11月22日以前、サンフランシスコ・シールズが来日中に「阪神が態度を一変」し5対3から4対4となったことが連盟の決裂の原因となったと記されている。松木謙治郎は『新版 タイガースの生い立ち』の中で球団は表面的には毎日加盟に賛成しながら、球団としては巨人・阪神の看板試合を失いたくないという苦しい立場だったと書いている。
※この「連盟分裂・タイガースの二心」の解説は、「プロ野球再編問題 (1949年)」の解説の一部です。
「連盟分裂・タイガースの二心」を含む「プロ野球再編問題 (1949年)」の記事については、「プロ野球再編問題 (1949年)」の概要を参照ください。
- 連盟分裂・タイガースの二心のページへのリンク