近代ホテル建築計画とは? わかりやすく解説

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近代ホテル建築計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/23 02:39 UTC 版)

浜野豊」の記事における「近代ホテル建築計画」の解説

1960年昭和35年早春万世閣では同業親友建築設計事務所招き密談をしていた。その豊の持ち出した計画とは、当時修学旅行用に使っていた「第二万世閣ユーカラ荘」と隣に建つ温泉旅館交換し交換した旅館解体し、そこに洞爺湖温泉最大のホテル建てるといった計画であったこの頃国民レジャーを楽しむ機会多くなり、観光地景気上向きつつあった。まだ「観光産業ということすらない時代温泉宿泊施設といえば木造建築が当たり前。鉄筋コンクリート大型ホテルなど誰もが考えもしなかった。たとえ考えた所で、温泉景気良いのは夏場だけ、冬場は客が激減するという不安定な業種考えただけでも無駄だというのに、豊は政府系金融機関引っ張ってきて政府登録の国際観光ホテル認可をうけるという計画であった。これが実現をすれば、「帝国ホテル」と同格になるのである北海道でも札幌小樽旭川に3軒しかなく、リゾート関係では日本有数全ての観光地のものを合わせて10軒ほどしかなく、無論北海道には1軒もなかった。この一軒は、同業親友、豊、隣接する旅館専務取締役建築設計事務所の4名しか知らずひそかに計画進められて行く。分かればそんな馬鹿な事」と周囲反対されるのは分かりきっていた。実際創業者で父の増次郎にも極秘進行されていった。しかし今まで和風旅館では経営効率悪く採算合わないというのが豊の考えであり「温泉宿泊施設」に対すイメージ変えたいという夢があった。それからの豊は、何かに取り付かれたようにホテル建設の道に突き進んで行く。 その背景には1964年昭和39年)に開催される東京オリンピック控え東北北海道ホテル当時都市ホテル以外は政府登録の国際観光ホテル資格持ち日本ホテル協会になっているホテルはなく、観光地における外国人の受け入れ対策貧弱だということ問題視されていた。万世閣もこの政府登録の内定をもらうまで運輸省へお百度参り始まり、約1年、なんとか1961年昭和36年運輸省から融資対象企業としての推薦内示を受けることが出来たこうした努力結果1962年昭和37年)、国からの融資、そして隣接旅館第二万世閣ユーカラ荘の交換契約締結済み、「旅館万世閣」から「ホテル万世閣」1962年昭和37年4月13日着工始まった

※この「近代ホテル建築計画」の解説は、「浜野豊」の解説の一部です。
「近代ホテル建築計画」を含む「浜野豊」の記事については、「浜野豊」の概要を参照ください。

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