近代ホテル建築計画
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1960年(昭和35年)早春、万世閣では同業の親友と建築設計事務所を招き、密談をしていた。その豊の持ち出した計画とは、当時修学旅行用に使っていた「第二万世閣ユーカラ荘」と隣に建つ温泉旅館を交換し、交換した旅館を解体し、そこに洞爺湖温泉最大のホテルを建てるといった計画であった。 この頃、国民はレジャーを楽しむ機会が多くなり、観光地の景気も上向きつつあった。まだ「観光産業」ということばすらない時代で温泉の宿泊施設といえば木造建築が当たり前。鉄筋コンクリートの大型ホテルなど誰もが考えもしなかった。たとえ考えた所で、温泉の景気が良いのは夏場だけ、冬場は客が激減するという不安定な業種。考えただけでも無駄だというのに、豊は政府系金融機関を引っ張ってきて政府登録の国際観光ホテルの認可をうけるという計画であった。これが実現をすれば、「帝国ホテル」と同格になるのである。 北海道でも札幌、小樽、旭川に3軒しかなく、リゾート関係では日本有数の全ての観光地のものを合わせても10軒ほどしかなく、無論北海道には1軒もなかった。この一軒は、同業の親友、豊、隣接する旅館の専務取締役、建築設計事務所の4名しか知らず、ひそかに計画は進められて行く。分かれば「そんな馬鹿な事」と周囲に反対されるのは分かりきっていた。実際、創業者で父の増次郎にも極秘で進行されていった。しかし今までの和風旅館では経営効率が悪く、採算が合わないというのが豊の考えであり「温泉の宿泊施設」に対するイメージを変えたいという夢があった。それからの豊は、何かに取り付かれたようにホテル建設の道に突き進んで行く。 その背景には1964年(昭和39年)に開催される東京オリンピックが控え、東北や北海道のホテルに当時、都市ホテル以外は政府登録の国際観光ホテルの資格を持ち、日本ホテル協会になっているホテルはなく、観光地における外国人の受け入れ対策が貧弱だということが問題視されていた。万世閣もこの政府登録の内定をもらうまで運輸省へのお百度参りが始まり、約1年、なんとか1961年(昭和36年)運輸省から融資対象企業としての推薦の内示を受けることが出来た。 こうした努力の結果、1962年(昭和37年)、国からの融資、そして隣接旅館と第二万世閣ユーカラ荘の交換契約締結も済み、「旅館万世閣」から「ホテル万世閣」に1962年(昭和37年)4月13日着工が始まった。
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