軍部との提携と大日本言論報国会
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「徳富蘇峰」の記事における「軍部との提携と大日本言論報国会」の解説
1931年(昭和6年)、『新成簀堂叢書』の刊行を開始した。同年に起こった満州事変以降、蘇峰はその日本ナショナリズムないし皇室中心主義的思想をもって軍部と結んで活躍、「白閥打破」、「興亜の大義」、「挙国一致」を喧伝した。 1935年(昭和10年)に『蘇峰自伝』、1939年(昭和14年)に『昭和国民読本』、1940年(昭和15年)には『満州建国読本』をそれぞれ刊行し、この間、1937年(昭和12年)6月に帝国芸術院会員となった。1940年(昭和15年)9月、日独伊三国軍事同盟締結の建白を近衛文麿首相に提出し、太平洋戦争の始まった1941年(昭和16年)12月には東條英機首相に頼まれ、大東亜戦争開戦の詔書を添削している。 1942年(昭和17年)5月には日本文学報国会を設立してみずから会長に就任、同年12月には内閣情報局指導のもと大日本言論報国会が設立されて、やはり会長に選ばれた。前者は、数多くの文学者が網羅的、かつ半ば強制的に会員とされたものであったのに対し、後者は内閣情報局職員の立会いのもと、特に戦争に協力的な言論人が会員として選ばれた。ここでは、皇国史観で有名な東京帝国大学教授・平泉澄や、京都帝国大学の哲学科出身で京都学派の高山岩男、高坂正顕、西谷啓治、鈴木成高らの発言権が大きかった。 1943年(昭和18年)4月に蘇峰は、三宅雪嶺らとともに東條内閣のもとで文化勲章を受章した。この年に蘇峰は80歳となり、三叉神経痛や眼病を患うようになったが、『近世日本国民史』の執筆は病気をおして継続している。1944年(昭和19年)2月には『必勝国民読本』を刊行した。 1945年(昭和20年)7月にポツダム宣言が発せられたが、蘇峰は受諾に反対。昭和天皇の非常大権の発動を画策したが、実現しなかった。
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