越後国瀬波郡絵図
主名称: | 越後国瀬波郡絵図 |
指定番号: | 113 |
枝番: | 2 |
指定年月日: | 2001.06.22(平成13.06.22) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 歴史資料 |
ト書: | |
員数: | 1鋪 |
時代区分: | 安土桃山 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 越後国頸城郡絵図および瀬波郡絵図は、同国頸城郡東部および瀬波郡(岩船郡)を描いた絵図で、米沢上杉家【よねざわうえすぎけ】に伝来した。頸城郡絵図の裏貼紙【うらはりかみ】に「慶二霜月十二日」という記載があり、また図中に記載される知行人【ちぎょうにん】の名前が、上杉景勝【かげかつ】の会津移封(慶長三年)以前の内容である点から、慶長二年(一五九七)が製作時期の下限と推定される。両図とも城郭・村落・町場・寺社・道路・橋梁・耕地・水系・山岳などを彩色で描き、郡郷界【ぐんごうかい】を朱線で示す。図中に郷名・村名・知行人の名前・本納【ほんのう】・縄高【なわたか】・家数等を墨書し、頸城郡絵図には住人数を併せて掲げる。記号化の進んだ江戸時代の国絵図と異なって、縮尺は一定せず、景観の描写には絵画風で中世的な特徴を残している。 越後では文禄四年(一五九五)にいわゆる太閤検地が、同五年から慶長二年にかけて上杉氏による領国検地が実施されており、これらの絵図はその成果を反映したものと考えられる。 二鋪の絵図は、宝永四年(一七〇七)に大破した状態で米沢の藩庫から発見され、藩当局によって修理を施された。他の諸郡の図についても米沢や江戸藩邸を探したが、見つからなかったという。 近世最初期における国郡規模の絵図の形姿を示す類例のない資料として、歴史的価値は極めて高い。 附とした越後国絵図は、寛保元年(一七四一)に、家老竹俣兵庫充綱が責任者となり、竹俣掃部の所持する「中古之越後絵図【ちゆうこのえちごえず】」をもとに、絵図方池田左市・右筆【ゆうひつ】登坂利左衛門・絵師目賀多柳川が仕立てた写本である。「文政二年御絵図目録」(市立米沢図書館所蔵)には「一 越後新御仕立絵図 一枚 右者慶長弐年之御絵図頸城郡古志郡高田辺無之全郡不仕故、寛保元年九月中御仕立相成候絵図」とあり、古図が完存していないため、新たに制作されたことがわかる。二鋪の郡絵図を補う意図が明らかであり、併せて保存を図るものである。 |
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