豊川電気移行後
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1924年(大正13年)1月15日、豊橋市大字東田字東前山に資本金30万円(うち7万5000円払込)にて「豊川電気株式会社」が設立され、同年9月、三河木材電気部の事業を譲り受けた。豊川電気の取締役は関谷守男・武田賢治・今西卓の3名で、武田が社長を務める。武田・今西はかつて旧豊橋電気で専務・支配人を務めた豊橋の実業家で、この当時は渥美半島に供給する豊橋電気(1921年設立)や豊橋電気軌道(現・豊橋鉄道)の社長・専務であった。 豊川電気移行後の1928年(昭和3年)8月、矢作水力との間に100キロワットの受電契約を結んだ。これは大名倉発電所の水路欠損に伴う発電力低下の対策であった。なお1937年(昭和12年)末の段階では矢作水力からの受電はなくなっており、大名倉発電所(出力80キロワット)以外の電源は隣接する大野電気からの受電8キロワットのみであった。 1937年初頭の段階で、経営陣は社長武田賢治・専務武田正夫(武田賢治の長男)であったが、同年5月3日に全役員が辞任、高石弁治(社長就任)・松本庸之助らと交代した。加えて役員改選と同日付で豊橋市から東京市麹町区丸ノ内1丁目6番地1(現・千代田区丸の内)へと本店を移転している。新社長となった高石は当時中央水力という電力会社の社長である。中央水力は伊那電気鉄道の既得水利地点を開発すべく設立された開発会社であるが、一般供給事業を持つべく豊川電気の全株式(6000株)を買収したのであった。 1937年5月、中央水力は傘下に収めた豊川電気から事業を譲り受けるべく逓信省へと認可申請した。この動きは逓信省の慫慂の下に当時全国的に活発化していた小規模事業整理・統合の波に乗ったものであったが、逓信省では買収価格が高すぎる点(12円50銭払込株式を1株あたり16円・総額9万6000円で買収)、開発会社に一般供給事業を持たせることが配電統制方針に沿わない点から電気料金低下に繋がらないと判断して申請を不認可とする方針を採った。中央水力側では大野電気など他の事業者も統合し電気料金も将来的に東邦電力並みに値下げするとして認可を求めたが、認可取得はなおも難航した。そこで中央水力は打開策として三河水力電気・南信電気との新設合併を決定する。3社合併についても逓信省は容易に認可しなかったが、翌1938年(昭和13年)8月に合併が成立し中央電力設立に漕ぎつけた。 中央電力は発足後、周辺の小規模事業者6社から相次いで事業を譲り受けた。その最初のものが豊川電気からの事業譲り受けであり、1938年12月に実施された。逓信省からの事業譲受認可は同年11月30日付である。登記によると豊川電気は同年12月1日付で会社を解散した。その3年半後の1942年(昭和17年)4月、豊川電気を統合した中央電力も配電統制令に基づく国策配電会社中部配電へと統合され、消滅している。
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