豊州電気鉄道・豊後電気鉄道時代
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「大分交通別大線」の記事における「豊州電気鉄道・豊後電気鉄道時代」の解説
詳細は「豊後電気鉄道」を参照 別大線を建設した豊州電気鉄道株式会社は、1894年(明治27年)11月20日に軌道敷設特許を得たのを受けて2年後の1896年(明治29年)8月5日に設立された。発起人は地元や愛媛県の実業家である。さらに4年後の1900年(明治33年)5月10日に、豊州電気鉄道は別府停留場(別府町字南町)から堀川停留場(大分町字堀川)に至る、全長6マイル56チェーン(約10.78km)の電気鉄道を開業させた。これが別大線で最初に開業した区間である。 その後路線は大分町側で延伸され、1901年(明治34年)11月29日に堀川から荷揚町停留場まで開業し、翌1902年(明治35年)4月15日には南新地停留場(後の竹町通)まで延伸された。また旅客輸送専門であったが1902年5月から貨車が導入され、貨物輸送も開始された。さらに1904年(明治37年)8月からは兼業として電気事業にも進出している。 こうした事業拡大にもかかわらず、経営面では業績を伸ばすに至らず、経営不振から経営陣の頻繁な交代や株主間の対立など社内は混乱するようになる。そのような中で元役員を中心とする債権者が大分地方裁判所に対し会社の破産申請の訴訟を起こし、1904年(明治37年)に豊州電気鉄道は破産宣告を受けてしまう。その後同社は債権者に財産一切を譲渡して負債を消却するという破綻処理をとることとなり、1906年(明治39年)1月30日の臨時株主総会で会社解散を決議した。そして同年1月4日に新会社豊後電気鉄道株式会社が設立され、破綻した豊州電気鉄道から事業一切を引き継いで経営の再建に着手した。 新体制となった豊後電気鉄道では積極経営を展開し、線路・車両の改修や電気事業の拡大を図った。豊後電気鉄道時代に路線の延伸はなく、その反面電気事業は水力発電所の新設など拡大したため、収入面では電気事業収入が著しく伸長し、大正初期には全収入の7割近くを占めるようになっている。
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