豊州電気鉄道・豊後電気鉄道時代とは? わかりやすく解説

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豊州電気鉄道・豊後電気鉄道時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 04:40 UTC 版)

大分交通別大線」の記事における「豊州電気鉄道・豊後電気鉄道時代」の解説

詳細は「豊後電気鉄道」を参照 別大線建設した豊州電気鉄道株式会社は、1894年明治27年11月20日軌道敷特許得たのを受けて2年後1896年明治29年8月5日設立された。発起人地元愛媛県実業家である。さらに4年後の1900年明治33年5月10日に、豊州電気鉄道別府停留場別府町南町)から堀川停留場大分町堀川)に至る、全長6マイル56チェーン(約10.78km)の電気鉄道開業させた。これが別大線最初に開業した区間である。 その後路線大分町側で延伸され、1901年明治34年11月29日堀川から荷揚町停留場まで開業し、翌1902年明治35年4月15日には南新地停留場(後の竹町通)まで延伸された。また旅客輸送専門であった1902年5月から貨車導入され貨物輸送開始された。さらに1904年明治37年8月からは兼業として電気事業にも進出している。 こうした事業拡大にもかかわらず経営面では業績伸ばす至らず経営不振から経営陣頻繁な交代株主間の対立など社内混乱するうになるそのような中で元役員中心とする債権者大分地方裁判所対し会社破産申請訴訟起こし1904年明治37年)に豊州電気鉄道破産宣告受けてしまう。その後同社債権者財産一切譲渡し負債消却するという破綻処理をとることとなり、1906年明治39年1月30日臨時株主総会会社解散決議した。そして同年1月4日新会社豊後電気鉄道株式会社設立され破綻した豊州電気鉄道から事業一切引き継いで経営再建着手した新体制となった豊後電気鉄道では積極経営展開し線路車両改修電気事業の拡大図った豊後電気鉄道時代路線の延伸はなく、その反面電気事業水力発電所新設など拡大したため、収入面では電気事業収入著しく伸長し大正初期には全収入の7割近く占めるようになっている

※この「豊州電気鉄道・豊後電気鉄道時代」の解説は、「大分交通別大線」の解説の一部です。
「豊州電気鉄道・豊後電気鉄道時代」を含む「大分交通別大線」の記事については、「大分交通別大線」の概要を参照ください。

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