護法運動での活躍
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1917年7月、海軍総長の程璧光が第一艦隊の「永豊」など5隻を率いて広州に南下。他の艦と合わせて西南護法艦隊と称した。この時の「永豊」艦長は魏子浩であった。12月、福建督軍李厚基などの恵州攻撃に対して「永豊」などが派遣された。続いて竜済光との戦闘に護法艦隊は参加した。 その後護法軍政府は崩壊するが、1920年に陳炯明が広東を奪還し、迎え入れられた孫文は広東護法軍政府を再建。1922年4月、孫文は護法艦隊の指導権奪取を図り、戦闘の結果奪取に成功。この際、「永豊」では航海副長が死亡した。また、この時の「永豊」艦長毛仲芳は広州市内で逮捕された。次の「永豊」艦長には馮肇憲が就任した。 1922年6月16日に陳炯明が孫文に反旗を翻すと、孫文は「宝璧」(または「楚豫」)に逃れ、それから馮肇憲の要請に応じて「永豊」へ移った。孫文は「永豊」から指揮を執り「永豊」などを率いて艦砲射撃も実施したが、大型艦は孫文側から離れたため黄埔からの脱出を余儀なくされ、その際に「永豊」は6発被弾して戦死者5名を出した。その後「永豊」は白鵝潭に停泊したが、8月9日に孫文は香港へと去った。その後、「永豊」など4隻は海軍艦隊司令温樹徳(中国語版)に接収された。 陳炯明は1923年1月には広州から駆逐され、孫文は第三次広東軍政府を作った。1923年2月1日、決死隊を組織した欧陽琳が永豊に乗り込み、乗組員に孫文擁護への決起を促す。決起はたちまち成功し、艦長・常光球を追放して仙頭に向かうと、同じく決起した肇和、楚豫と合流、「仙頭艦隊」を組織して孫文擁護の通電を発する。12月、温樹徳は姉妹艦の永翔を含む7隻を率いて北洋政府に参加するが、永豊は飛鷹、舞鳳、福安とともに広州に留まる。 広州商団が反乱を起こすと、1924年8月20日、孫文と蒋介石の命を受け、商団軍の武器を乗せた運搬船ハーバード号を白鵝潭(中国語版)で拘留する。 11月13日、北京での軍閥との講和に赴く孫文・宋慶齢を乗せ白鵝潭を発する。道中浅瀬に乗りあげるアクシデントがあったが、自力で脱出、黄埔島に立ち寄り軍官学校を視察、その後ソ連軍巡洋艦ビロフスキー号の護衛の下香港まで乗せると、孫文は春洋丸に乗り換え上海、神戸を経て北京に到着、そのまま広州に戻る事はなく翌1925年3月12日、同地で亡くなった。4月13日、国民党中央執行委員会の決定により永豊は “中山”と改名された。同日の改名式典では、留守役胡漢民、商民部長伍朝枢、廖仲愷、徐謙、鄧沢如(中国語版)、粤軍総司令代理許崇智、警衛司令呉鉄城、広東江防司令李宗黄、朱培徳、胡思舜らが乗艦した。なお、中山とは孫文の号である。
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