護法軍政府での活動
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1918年(民国7年)、郭泰祺は広州へ向かい、孫文(孫中山)の護法軍政府に加入して参事兼外交次長に任ぜられた。この年の夏、陳友仁、王正廷とともにアメリカに向かい、アメリカ政府の護法軍政府支持を獲得しようと活動したが、これは失敗に終わる。1919年(民国8年)1月、郭と陳は護法軍政府代表として、パリ講和会議に派遣された。しかし、郭・陳はアメリカで北京政府否認の活動を展開したため、後に別途派遣された王が講和会議で護法軍代表となっている。 1920年(民国9年)11月25日、孫文らが軍政府を改組したことに伴い、郭泰祺は軍政府参事兼宣伝局局長に任ぜられた。翌年5月、孫文が非常大総統となると、郭は総統府参事となる。1922年(民国11年)4月、広東省政務庁庁長に任ぜられる。翌年、外交部次長となった。1924年(民国13年)、国立武昌商科大学校長に任ぜられる。
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