護法運動から最初の失脚まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 05:47 UTC 版)
「唐継尭」の記事における「護法運動から最初の失脚まで」の解説
袁世凱死去後に、唐継尭は孫文の護法運動に参加し、雲南の指導者として南方政府の重鎮となった。しかし1917年(民国6年)9月、孫文が広州で護法軍政府を組織して大元帥となると、唐は広西省の陸栄廷と共に元帥に選出されたが、孫文の下風に立つことを拒み、就任しなかった。次に、1918年(民国7年)5月に軍政府が改組され、孫、唐ら7人の総裁による集団指導体制になると、唐は総裁就任に応じた。まもなく、唐は護法戦争を支持するための「靖国軍」を組織して、四川省などの各省への対外拡張を図り、同年9月には、西南の各軍司令官と重慶で会議を開き、唐は靖国軍八省聯軍総司令を自称した。 しかし、同年8月に岑春煊が主席総裁となり、陸栄廷ら桂軍(広西軍、広西派)が護法軍政府で主導権を握ると、唐継尭はこれに不満を持つようになる。そこで今度は、総裁就任を拒否した孫文や唐紹儀、さらには伍廷芳などと連携する。1920年(民国9年)10月、孫・唐らを支持する広東軍の陳炯明により、岑は引退に追い込まれ、桂軍は広東から駆逐された。 唐継尭は民国9年(1920年)6月に「民治」を主張し、当時の聯省自治運動と連動した。その一方で、雲南1省の支配者に留まることを望まず、他の省への影響力も保持・拡張しようと図る。さらに密かに北京政府の呉佩孚と連合するなどした。しかし民国10年(1921年)になると、四川省駐屯の滇軍は地元の川軍により駆逐されてしまう。さらに同年2月、駐川(四川)滇軍第1軍軍長顧品珍が、雲南へ戻るや唐に対してクーデタを起こし、唐は香港へ逃走した。
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