護法軍政府での政争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 13:57 UTC 版)
同年、孫文が護法戦争を発動すると、陸栄廷は南方政府の重鎮としてこれを支持した。9月、孫文が広州で護法軍政府を組織して大元帥となると、陸は雲南省の唐継尭とともに元帥に選出された。しかし陸・唐は、孫文の下風に立つことを拒み、就任しなかった。次に、1918年(民国7年)5月に軍政府が改組され、孫、陸、唐ら7人の総裁による集団指導体制になると、陸・唐は総裁就任に応じた。同年8月には、陸が擁立する岑春煊が主席総裁となり、陸率いる桂軍が護法軍政府で主導権を握った。岑と陸は「南北和平」を唱えて、北京政府(特に直隷派)との交渉を進めようとした。 ところが、岑春煊・陸栄廷による権力独占や北京政府との融和の姿勢に反発して、孫文、唐紹儀、唐継尭、伍廷芳など他の総裁は敵対的姿勢をとるようになる。さらに、陸栄廷による広東支配は広東人の反感を次第に高めていく。ついに民国9年(1920年)7月、孫らを支持する陳炯明が率いる粤軍(広東軍)が、陸・岑への攻撃を開始した。同年10月、岑は追い詰められて下野し、11月までに桂軍は広東を駆逐され広西に撤退した。
※この「護法軍政府での政争」の解説は、「陸栄廷」の解説の一部です。
「護法軍政府での政争」を含む「陸栄廷」の記事については、「陸栄廷」の概要を参照ください。
- 護法軍政府での政争のページへのリンク