護法戦争以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/15 04:02 UTC 版)
1918年(民国7年)10月、孫文が護法戦争を発動すると、柏文蔚はこれを支持し、靖国軍川顎聯軍前敵総指揮に任命された。その後も孫文の下で軍職を歴任し、1921年(民国10年)5月、総統府顧問に任命される。1922年(民国11年)4月、長江上游招討使に任命された。1924年(民国13年)1月には北伐討賊軍第2軍軍長となり、この月には、中国国民党の中央執行委員にも選出されている。 孫文死後の1926年(民国15年)8月、国民革命軍第33軍軍長に任命され、安徽省各地を転戦した。1927年(民国16年)4月12日の、蒋介石による反共クーデターでは、柏文蔚はこれを非難する声明を発した。9月、寧漢合流後に、第33軍軍長を罷免され、国民政府委員に異動する。 1928年(民国17年)8月、柏文蔚は反蒋介石の立場から、中国国民党改組同志会に加わったが、11月までに国民党を除名されてしまう。1930年(民国19年)の反蒋各派による北平拡大会議でも常務委員として活動したが、蒋の前に敗北した。1931年(民国20年)、国民党に復籍している。その後は馮玉祥らと組んで、国共合作や対日抗戦を主張した。 1947年(民国36年)に引退し、同年4月26日に柏文蔚は上海で死去した。清貧な生活を維持し続け、困窮の中での病没であった。享年72(満70歳)。
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