護法軍政府での台頭、敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:21 UTC 版)
袁世凱死後に護法運動が発生すると、岑春煊は孫文らの護法軍政府(南方政府)側についた。しかし、李根源ら政学会や陸栄廷の桂軍(旧広西派)等に擁立され、孫とは対立するようになる。そのため、1917年(民国6年)9月に孫文が護法軍政府の大元帥に就任すると、岑はその指導体制を拒否した。 1918年(民国7年)5月に護法軍政府が7総裁による集団指導制に改組されると、岑春煊は陸栄廷ら桂軍の支援も得て、8月に主席総裁に就任した。岑や桂軍が主導権を握るようになると、北京政府(特に直隷派)との協調姿勢をとり、「南北和平」を目指そうとした。しかし、その政治姿勢に反発する形で、今度は孫文、唐紹儀、唐継尭(滇軍)の各総裁が反発して辞任したり、岑や陸栄廷の北京政府との密約を暴き糾弾したりした。 1920年(民国9年)3月になると、総裁の1人である伍廷芳が上海へ離脱して、反岑勢力と連合する。これは事実上、軍政府を分割する挙であった。同年10月、粤軍(広東軍)の陳炯明が桂軍を広東から駆逐してしまう。後ろ盾を失った岑春煊は、ついに辞職を表明して上海の租界に逃げ込んだ。そしてこれ以後、岑は二度と政治の舞台には戻ろうとしなかった。 1933年(民国22年)4月27日、死去。享年73(満72歳)。
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