護法戦争での活動とは? わかりやすく解説

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護法戦争での活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:16 UTC 版)

許崇智」の記事における「護法戦争での活動」の解説

その後許崇智日本へ亡命する。1914年民国3年7月東京孫文中華革命党組織すると、許崇智はこれに参加して軍務部長となった。それからしばらくは、孫文の命により、南洋で「革命公債」を発行するなどして中華革命党資金獲得奔走した1915年民国4年12月帰国して福建護国戦争第三革命)に呼応する袁世凱蜂起を行う。さらに山東省移って中華革命軍東北軍参謀長兼前敵総指揮となり、青島総司令部設置した民国5年1916年5月東北軍総司令代理となっている。同年6月袁世凱死去すると、許崇智上海戻り引き続き中華革命党軍務部長として孫文補佐した。なおこの頃に、蔣介石義兄弟契り結んだとされる1917年民国6年9月に、護法戦争発動し孫文広州護法軍政府樹立すると、許崇智大元帥参軍長兼署陸軍総長任命された。同年12月、援閩粤軍(総司令陳炯明)が組織されると、許崇智は第2支隊司令任命された。翌年5月北京政府支配下福建省向けて援閩粤軍は進軍し許崇智第2軍軍長昇進して汀州駐屯した。1920年民国9年8月陳炯明許崇智の軍は、孫文対立する陸栄廷らの駐粤桂軍広西軍)を駆逐し桂軍後ろ盾得ていた軍政府主席総裁岑春煊失脚させた。さらに1921年民国10年)には広西省退却した陸栄廷追撃し、これも撃破した1922年民国11年6月陳炯明孫文決裂してこれを攻撃すると、許崇智陳炯明反撃した。しかし、一部配下の軍が離反したため、敗北して江西省逃走した9月初めに態勢立て直し許崇智福建省進攻して北京政府側の督軍李厚基撃破し、省を手中にした。これにより、孫文から東路軍総司令任命されている。1923年民国12年)春、許崇智広東省陳炯明攻撃したが、逆撃に遭い大敗した

※この「護法戦争での活動」の解説は、「許崇智」の解説の一部です。
「護法戦争での活動」を含む「許崇智」の記事については、「許崇智」の概要を参照ください。

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