調査研究に関わった遺跡とは? わかりやすく解説

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調査研究に関わった遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 16:34 UTC 版)

高井悌三郎」の記事における「調査研究に関わった遺跡」の解説

高井が調査研究に関わった遺跡の内、主なものには以下のようなものがある。 新治廃寺跡上野原瓦窯跡、新治郡衙跡遺跡茨城県筑西市高井の名を高めた新治廃寺新治郡衙跡調査研究は、この地の地主である藤田清書いた常陸不動倉』(『社会経済史学』第5巻第3号1935年6月)pp.116-117)を高井読んだことから始まった自身が住む新治村古郡にある遺跡新治郡衙跡である可能性指摘していた藤田記事関心持った高井は、藤田の元を訪れ藤田交流を持つようになった。そして藤田協力のもと発掘調査1939年昭和14年)から1943年昭和18年)にかけて行われた高井はこの発掘調査当時最先端遺跡調査法取り入れて行い結果古郡遺跡新治廃寺跡上野原瓦窯跡、新治郡衙跡であることを明らかにした。国内地方郡衙概要明らかにされたのはこの調査初めてであり、地方郡衙研究進展させた高井業績大きなものがある。 この調査をまとめた書、『常陸国新治郡上代遺跡研究』(桑名文星堂、1944年)により高井の名は国内考古学界に知られるようになった台渡里廃寺跡茨城県水戸市茨城県在住中の1939年昭和14年)から1943年昭和18年)にかけて、高井によって調査された。この調査結果から1945年7月16日茨城県文化財史跡)に認定された。この調査報告書は『常陸台渡廃寺跡・下総結城八幡瓦窯跡』(1964年茨城県教育委員会)として発行されている。 堀ノ内古窯跡群(茨城県西茨城郡岩瀬町(現・桜川市)) 1956年昭和31年)から1958年昭和33年)の間に4次の調査が、高井藤田清上野武臣らにより行われた報告書は『常陸国新治上代遺跡研究』(1988年甲陽史学会)として発行された。 小野遺跡茨城県新治郡新治村(後、土浦市合併八幡瓦窯跡(茨城県結城市1953年昭和28年)に高井他、藤田清中村盛吉率い常総古文研究会らの協力調査が行われた。報告書は『常陸台渡里廃寺跡下総結城八幡瓦窯跡』(1964年茨城県教育委員会)。 富谷薬師台瓦窯跡(茨城県岩瀬町1951年昭和26年)に高井藤田清らにより2期分けて調査が行われた。報告書は『常陸富谷薬師台瓦窯址調査甲陽史学会研究報告1)』(1954年甲陽史学会)。 伊丹廃寺跡兵庫県伊丹市高井調査主任として、1958年昭和33年12月から調査始まり1965年昭和40年)の第23調査までの調査成果高井執筆により『摂津伊丹廃寺跡 : 発掘調査報告書』(1966年伊丹市教育委員会)として刊行された。この発掘成果により伊丹廃寺跡1966年昭和41年3月22日国史跡指定された。 三ッ塚遺跡兵庫県丹波市1972年昭和47年)の第1次調査から1975年昭和50年)の第4次調査までを総括責任者として主導した当時この発掘作業に関わっていた五十川伸矢は、高井学生達に混じり一緒に汗をかきながら発掘調査をしていたと、述べている。三ッ塚遺跡1976年昭和51年)に国の史跡指定された。 広渡廃寺跡兵庫県小野市

※この「調査研究に関わった遺跡」の解説は、「高井悌三郎」の解説の一部です。
「調査研究に関わった遺跡」を含む「高井悌三郎」の記事については、「高井悌三郎」の概要を参照ください。

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