調査研究に関わった遺跡
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「高井悌三郎」の記事における「調査研究に関わった遺跡」の解説
高井が調査研究に関わった遺跡の内、主なものには以下のようなものがある。 新治廃寺跡、上野原瓦窯跡、新治郡衙跡遺跡(茨城県筑西市) 高井の名を高めた新治廃寺、新治郡衙跡の調査研究は、この地の地主である藤田清が書いた『常陸の不動倉』(『社会経済史学』第5巻第3号(1935年6月)pp.116-117)を高井が読んだことから始まった。自身が住む新治村古郡にある遺跡が新治郡衙跡である可能性を指摘していた藤田の記事に関心を持った高井は、藤田の元を訪れ藤田と交流を持つようになった。そして藤田の協力のもと発掘調査が1939年(昭和14年)から1943年(昭和18年)にかけて行われた。高井はこの発掘調査を当時の最先端の遺跡調査法を取り入れて行い、結果、古郡の遺跡が新治廃寺跡、上野原瓦窯跡、新治郡衙跡であることを明らかにした。国内の地方郡衙の概要が明らかにされたのはこの調査が初めてであり、地方郡衙研究を進展させた高井の業績は大きなものがある。 この調査をまとめた書、『常陸国新治郡上代遺跡の研究』(桑名文星堂、1944年)により高井の名は国内考古学界に知られるようになった。 台渡里廃寺跡(茨城県水戸市) 茨城県在住中の1939年(昭和14年)から1943年(昭和18年)にかけて、高井によって調査された。この調査結果から1945年7月16日に茨城県の文化財(史跡)に認定された。この調査報告書は『常陸台渡廃寺跡・下総結城八幡瓦窯跡』(1964年、茨城県教育委員会)として発行されている。 堀ノ内古窯跡群(茨城県西茨城郡岩瀬町(現・桜川市)) 1956年(昭和31年)から1958年(昭和33年)の間に4次の調査が、高井と藤田清、上野武臣らにより行われた。報告書は『常陸国新治群上代遺跡の研究Ⅱ』(1988年、甲陽史学会)として発行された。 小野窯遺跡(茨城県新治郡新治村(後、土浦市に合併) 八幡瓦窯跡(茨城県結城市) 1953年(昭和28年)に高井他、藤田清、中村盛吉率いる常総古文化研究会らの協力で調査が行われた。報告書は『常陸台渡里廃寺跡・下総結城八幡瓦窯跡』(1964年、茨城県教育委員会)。 富谷薬師台瓦窯跡(茨城県岩瀬町) 1951年(昭和26年)に高井、藤田清らにより2期に分けての調査が行われた。報告書は『常陸富谷薬師台瓦窯址の調査(甲陽史学会研究報告1)』(1954年、甲陽史学会)。 伊丹廃寺跡(兵庫県伊丹市) 高井を調査主任として、1958年(昭和33年)12月から調査が始まり、1965年(昭和40年)の第23次調査までの調査成果が高井の執筆により『摂津伊丹廃寺跡 : 発掘調査報告書』(1966年、伊丹市教育委員会)として刊行された。この発掘成果により伊丹廃寺跡は1966年(昭和41年)3月22日に国史跡指定された。 三ッ塚遺跡(兵庫県丹波市) 1972年(昭和47年)の第1次調査から1975年(昭和50年)の第4次調査までを総括責任者として主導した。当時この発掘作業に関わっていた五十川伸矢は、高井が学生達に混じり一緒に汗をかきながら発掘調査をしていたと、述べている。三ッ塚遺跡は1976年(昭和51年)に国の史跡に指定された。 広渡廃寺跡(兵庫県小野市)
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